夜な夜な黒魔術屋

感想・エッセイ・小説

『帰郷』

 故郷の梨湘(りそう)国に十年ぶりに一時帰国したのは、お母さんと自分の帰化手続きを済ませるためだった。故郷を離れるために帰郷するという奇妙な体験を、生まれて初めてするのだった。役所の窓口で国籍離脱の書類を提出してから証明書を受け取るまで、たったの数分で実感が湧かないまま手続きが終わってしまった。呼び出し番号が大きく表示されているディスプレイを呆然と眺めながら、わたしは子供の頃に遊んだビデオゲームを不意に思い出した。長い長い旅の末、前触れもなくあっさりと物語に終止符を打った「FIN」の三文字が、どの名場面よりも記憶に残っていた。終わりの訪れはいつもわたしに早すぎた。

 「明日の深夜便だから、それまでにけいちゃんに挨拶してきな」

 帰り道に、お母さんが念を押してきた。

 「わかってるって。もう連絡しといたよ」

 日差しがとても強かった。こうして帰り道を二人並んで歩くのは、交通事故で亡くなったお父さんの葬式以来だった。その日、参列者が皆涙に暮れている中で、わたしだけがなぜか一向に泣く気配がなかった。小さい頃から泣き虫で、決して悲しみの感情を持ち合わせていないような人種ではなかったが、本番に限ってへまをする不出来な性格よろしく、わたしは期待された涙を流すことさえままならぬ出来損ないだった。透明の痕跡を残して赤く腫れた目の縁の中で、わたしのその姿をとらえた二粒の黒曜石を揺り動かしながら、お母さんが放った「人でなし」の一言が、わたしを深い自己嫌悪の深淵に落とした。会場のドアの裏にこっそり隠れていた幼馴染のけいちゃんがその場に居合わせなかったら、わたしはとっくに針で刺すような視線にぐちゃぐちゃに壊されていたのかもしれない。

 記憶の中のけいちゃんはいつもわがままで、夢見がちで、他人のことを真摯に想い、怖いもの知らずな少年だった。わたしが演劇に興味を持ち始めたのは、すべて彼の影響だった。厳しい検閲が行われている梨湘では極少数の作品しか上演が許されないが、それでもわたしたちは同じ演目に何度も胸が躍り、頻繁に地元の劇場に足を運んでいた。ある日、けいちゃんは突然「隣の国に行ってみたい」と言った。どうやら隣の国では自由に演劇が観れるらしいとのことだった。こうして、けいちゃんの言葉一つで、梨湘生まれ梨湘育ちのわたしの心の中で、いずれたわわに実ることも知らずに、異国に対するただひたすら盲目的で、小さな憧憬が芽生え始めた。思えば、わたしは本当の意味ですべてにおいて恵まれていた。

 しかし、けいちゃんはついに梨湘を出ることがなかった。父親の意志で家業の料理屋を継ぎ、年若くして結婚を強いられたと聞いた。わたしは仕事に夢中だったので、連絡をずっと先延ばしにしているうちに、次第に彼の存在そのものすら忘れかけていた。お互いに新年挨拶のメッセージさえ送らなくなった関係も、そろそろ七年目に入るところだった。

 「帰ってきたよ。今夜十一時、話があるんだ。いつものとこに来て」

 「帰ってきやがったか」

 「うん」

 それきり、けいちゃんからの返事はなかった。その「帰ってきやがったか」の一言が果たして面会の承諾なのか、それともただの事実の確認なのか、はたまた幼馴染なりの悪ふざけなのか、けいちゃんは何も教えてくれなかった。

 その日の夜十一時、わたしは約束通りにいつものバーを訪れたーーいつものと言っても、それは十年前のことだったので、探すのに一苦労した。古めかしいくすんだ色味が売りだった昔ながらの店内の装飾が、今や不規則に明滅を繰り返すネオンに取って代わられ、注文から支払いまで金属製のテーブルの上に行儀よく設えられているタッチパネルで済ませられるようになり、十年前の面影のかけらもなく、何もかもがすっかりデジタル時代に順応してしまった。少し戸惑いながらも、わたしは店員の案内で席についた。予約しておいた席は、店の中でも特に照明の明かりが届かない隅っこにあったが、明るい雰囲気が望めないわたしたちの再会にはもってこいの場所だった。

 お水を飲みながらスマホのアプリで時間を潰していると、すぐにけいちゃんがやって来た。無言のまま会釈した後、彼は対面の席に腰を掛けた。わたしはけいちゃんが面会に応じてくれたことにホッとした一方、何から切り出せばいいかさっぱり分からず口籠っていた。

 「ライター持ってる?」

 それがけいちゃんが発した最初の言葉だった。

 「なんて?」

 あまりにも予想外すぎた挨拶に思わず耳を疑った。

 「持ってないならいいや。店員さん」

 すると、合い言葉でも交わしたかのように、ライターが運ばれてきた。けいちゃんは手慣れた手つきでポケットの中から煙草を一本だけ取り出し、乳首を貪る赤ん坊のように尖った口先に吸い口を嵌め、店員からもらったライターで火をつけた。数秒も経たないうちに、嗅覚神経に突き刺さるような刺激的な匂いと共に、煙が立ち込めた。

 わたしは愕然とした。けいちゃんは重篤な慢性気管支炎患者で、煙草など吸えない体質のはずだった。

 「まぁ、常連でねぇ。贔屓してくれるんだ」

 困惑した私のために、けいちゃんは得意げに如何にも的外れな説明をしてくれた。煙草の先に揺らぐ微かな焔に照らされ、わたしはようやく辛うじてけいちゃんの顔を識別できた。とても三十代とは思えない皺だらけの荒んだ顔だった。

 「そんで、話ってなんだ?」

 「ああ、実は……」

 わたしは梨湘に一時帰国した理由をけいちゃんに教えた。けいちゃんはただ目を細め、煙草を吹かしては咳き込むのを繰り返すだけだった。

 「で?」

 「え?」

 「だから何を言いたいんだって」

 「えっと、お別れの挨拶ってやつ……?」

 「どうでもいいや。わざわざ俺を呼び出しといて用事はこれだけ?がきんちょでさえもうちょい生産的な話すんだろうが」

 「え……」

 何もかもがお父さんの葬式に参列したあの日みたいにぐちゃぐちゃだった。けいちゃんの喋り方も、言わんとしていることも、全くもって意味不明だった。

 「他にもっと話すことない?」

 「えっと、演劇の新作の話なら……」

 「演劇?ああ、その話はいいんだ」

 けいちゃんはうんざりした顔で手を大きく振って、わたしの話を遮った。

 「ていうか、まだ演劇なんか観てたのか。お金持ちってば羨ましいったりゃしねぇな。どいつもこいつもバカみてぇに無駄に道楽に金をつぎ込みやがって」

 わたしは絶句した。しかし、目の前の男の暴走はまだこれだけでは止まらなかった。一つ激しく咳き込むと、彼はせがむように背を丸くして、親指と人差し指を擦るような仕草を見せた。

 「儲かってるならちょっと貸してくれよ。最近煙草買い過ぎでねぇ」

 薄暗闇の中で近寄ってきた彼の顔が今以上にはっきりと輪郭を顕わにした。その真ん中より少し上に、獲物を定めた獅子のような、血走った真っ赤な目玉が二つ据わっていた。しかし、わたしは一目でわかった。それは悲しみに暮れた者が自己嫌悪の感情を紛らわすための、威張るように作り出した最後の防壁だった。あの日のわたしも、きっと同じような目をしていたのだった。

 「もう煙草やめてよ」

 溜めに溜めた一言を、ゆっくりと吐き出した。

 「は?」

 彼は怒りに震えて、握りしめた右手を高く上げたが、結局殴らずに手を下ろしてしまった。

 「くたばれ、この裏切者め」

 そう言い残して、逃げるようにバーを後にした。

 刺激的な煙が徐々に薄くなって行く中、ニコチン中毒者特有の耐え難い悪臭が今以上に鮮やかだった。わたしは知らなかった。幸運でいるという不幸が、こんなにも生々しい腐肉の味だったとは。

 翌日、わたしとお母さんは予定通りに無事に梨湘を発つ飛行機に乗り込んだ。ずっと恋しそうにしていたお母さんの足取りが、わたしよりずっと軽そうに見えた。今まで一度も梨湘を離れることに感じたことのない罪悪感が昨晩の件をきっかけに、堰を切ったように一気にわたしに襲い掛かってきた。

 梨湘を離れた十年の歳月は、わたしという人間を傲慢で利己的な獣に変えてしまった。泣けと言われるや否や、すぐにでも真珠のようにきれいな玉を落とせるようになった。しかし、物事に敏感だった心は変わり果て、幼馴染の身に起きた、彼の人生を酷く狂わせた悲劇にさえ無関心な人間に成り下がってしまった。わたしは自分の異変にはっきりと気づいていたが、これでいいとなおどうしようもなく冷静に思った。

 --そうとも、彼に金を貸し、彼が豹変した理由を聞き出したところで、彼を救うことができたというのだろうか。わたしは梨湘を離れる定めの人間で、彼は梨湘に閉じ込められる定めの人間だ。彼の物語は、所詮わたしがこれから生きる社会とは全く無縁な、物好きな奴らに弄繰り回されるようなつまらぬ話に過ぎない。演劇よろしく、私は彼の不幸を嘆くことが、不条理にむせび泣くことがあっても、彼の世界に踏み込むことは決してないだろう。数週間も経てば、彼が苦しんでいたことさえすっかり忘れてしまうだろう……

 「当便はまもなく出発いたします」

 わたしの見苦しい言い訳を打ち切るように耳触りのいい女声アナウンスが流れると、飛行機は今にも滑走路を走り出しそうに、エンジン音を鳴らしつつ機体を震わせ始めた。これから飛行機はわたしとお母さんを載せて、全てを恵んでくれた母なる大地に別れを告げる旅に出るのだった。

 「二十五年前にはじめて飛行機に乗ったときのこと、覚えてるのかな?」

 お母さんが窓の外を眺めながら、嬉しそうに口を開けた。子供の頃に必ず窓側の席に座らせてくれていたお母さんが、今日は一番窓に近い席に座っていた。

 「……はい」

 「めっちゃ騒いでて、どうしようってすごく困ってたの」

 「あはは……」

 「それがねぇ、こんなに立派になって……」

 そう言って、お母さんはわたしの手を握った。しかし、視線をこちらに向けずに、窓ガラスに映ったわたしの顔を見つめるのだった。わたしは彼女の視線に合わせるように窓の方に顔を寄せようとしたが、ちょうど離陸滑走が始まったところで、機内の照明が消されて、ぼんやりと二人の顔のシルエットしか見えなかった。それからしばらくわたしたちは言葉を交わすことなく、お互いの手の温もりを感じながら、いつにもまして静謐な空気に包まれた梨湘の夜をひたすら眺めていた。

 「そういえば、けいちゃん元気だった?」

 昔から寡黙な人間で、沈黙を破るのはいつもお母さんの方だった。口にこそしなかったものの、この一問一答のような会話を続ける関係を誰よりも心から愛していた。しかし今、わたしは生まれて初めてお母さんの質問にゾッとするような寒気を覚えた。一瞬、少年時代のけいちゃんの顔が脳裏をよぎった。そのきれいな顔が、今やとてつもない怒りと悲しみでひどく歪んでいるように見えた。暗夜さえも吸い込まれそうな真っ黒な瞳、鷹がくちばしを鳴らすが如く鼻孔をガタガタ震わせる鼻、そしてびくびくと小刻みに引き攣る血の気のない唇ーーそれらが皆わたしに向かって口をそろえてこう叫んだ。「くたばれ、この裏切者め」、と。

 わたしは決して正直な人間ではなかった。お母さんの質問にたくさん嘘の回答を返した分だけ、嘘でも合わせてくれるお母さんの優しさにたくさん救われてきた。しかし、今回ばかりは地獄のどん底に堕ちて氷漬けにされるだろうと、わたしは薄々勘づいていた。

 「……元気だったよ。おめでとうって」

 零した言葉は不誠実、わたしそのものだった。

 「そう。よかった」

 加速し始めた機体に席が引っ張られ、体が投げつけられたように背もたれに固定された。あわれみ深き故郷の大地が、未だに諦めずにわたしを引き留めたがっていた。ごめんなさいとさよならを何度も心の中で唱えるとともに、わたしは完全に慣性力に身を委ねた。追放された気分がこんなにも清々しく穏やかだったなんて知らなかった。わたしの心を見透かしたみたいに、お母さんもそれきり何も言わなくなり、子猫を愛撫するが如く右手でわたしの腕をゆっくりと摩りながら、眠るようにずっと目を閉じていた。「人でなし」も、「裏切者め」も、この温かな感触によって上書きされていくような気がした。ああ、地獄に堕ちる日が訪れるまでにこの温もりを体に刻んでおこうーー意識が遠くなっていく中で、わたしはそんな風に思った。