夜な夜な黒魔術屋

GENERALS GATHERED IN THEIR MASSES, JUST LIKE WITCHES AT BLACK MASSES

『帰郷』

 


 故郷の梨湘に十年ぶりに帰省したのは、母親と自分の帰化手続きを済ませるためだった。故郷を離れるために帰郷するという奇妙な体験を、生まれて初めてするのだった。閑散としている役所の窓口で国籍離脱の届出をして、証明書を受け取る。呼び出し番号が大きく表示されているディスプレイを呆然と眺めながら、わたしは子供の頃に遊んだビデオゲームを不意に思い出した。長い長い旅の末、前触れもなくあっさりと物語に終止符を打った「FIN」の三文字が、どの名場面よりも記憶に残っていた。

 「明日の深夜便だから、それまでにけいちゃんに挨拶してきな」

 帰り道に、母親が念を押してきた。

 「わかってるって」

 日差しが強く、こうして二人並んで帰途につくのは、交通事故で亡くなった父親の葬儀以来だった。あの日参列者が皆涙に暮れている中、わたしだけがなぜか一向に泣く気配がなかった。小さい頃から泣き虫で、決して悲しみの感情を持ち合わせていないような人種ではないが、本番に限ってへまをする不出来な性格よろしく、わたしは期待された涙を流すことさえままならなかった。透明の痕跡を残して赤く腫れた目の縁の中で、わたしのその姿をとらえた二粒の黒曜石を揺り動かしながら、口元を歪ませた母親の「人でなし」の一言が、記憶を喚起する言葉に触れるたびにやたらと鮮明によみがえってくる。

 これは、梨湘の地に纏わる、わたしの少年時代に刻まれたごく平凡で苦渋な思い出の一つに過ぎない。今となっちゃ決して痛くも痒くもないけれど、なぜか忘れられそうにもない。梨湘という町は、物心がつく頃からずっとそんな生ぬるい温度感だった。そこには好きという感情も嫌いという感情も、一切の介入する余地がなく、あるのは全てをドライに受け流してくれる「へぇ、そうなんや」という素っ頓狂な抑揚をつけた魔法の言葉だった。わたしも小っちゃい頃に、両親の前で地元民っぽく「へぇ、そうなんや」の真似を何度かしたことがあるが、その都度父親は高笑いを上げ、母親は「やめなさい。そういう大人になってはいかない」と鬼の形相になっていた。そういう大変ありがたい教育を受けていたおかげで、私はとても湿気じみた大人に育った。だからこんな梨湘でも、わたしは全くの無感情では居られなかった。例えば、幼なじみの風来坊にあちこち連れ回され、現実味皆無のほら話ばかり聞かされていた小さな歓びーーそれも確かにこの地に根付いたものである。

 奴をけいちゃんとわたしは呼んでいた。家族ぐるみの付き合いだったが、本名はもうすっかり忘れた(十年以上の付き合いでも、ずっとあだ名で呼び合っていた仲だと本名は中々思い出せないみたい)。商店街の向こうに住んでいたらしいが、商店街の向こうに行ったことがないからどこに住んでいたかも分からない。それでも商店街の向こうというだけで、わたしの想像だけは無限に膨らんでいた。そこには梨湘大劇場という、何でも、外国崇拝を吹聴する「インテリ」という怪しい集団が牛耳っている施設があるらしい。そんなファンキーな話を素直に信じるほどわたしは良く出来た子供ではなかったが、それでも時折父親が真面目に鼻孔を左右に動かしながら「ええか、そこに近づいたらあかん」と訓戒を垂れるのは、やたらと面白かった。それもあってか、父親は梨湘大劇場の話をいつもしたがるけいちゃんのことがあまり好きではなかった。いつもと言っても、ほとんど毎回同じような内容だったが。聞くにはどうやらいつも同じ演目ばっかりやっているらしい。「つまらなそう」とわたしはげらげら笑うと、「いや、毎回違う人がやってるから面白いっすよ」とけいちゃんは不満そうな顔をする。そんな感情豊かな時間がずるずると過ぎていく。

 するとある日、けいちゃんは隣の国に行ってみたいと言った。何でも「本場の劇が観たい」らしい。「本場」という言葉の意味がよくわからないが、けいちゃんが本気なのはよくわかった。だから「じゃあわたしもついていく」とわたしは言った。しかしどういう訳かそれを父親に知られてしまい、「もう一遍言ってみろ、この売国奴」と尻をパンパンと叩かれた。それでも、どうやらけいちゃんはいつもの演目にいよいよ飽きてきたらしく、どうしても本場の劇を観てみたいようだ。その時はじめて「ナンチャラカンチャラ」という言葉を知った。隣の国では、どうもそいつのブームが巻き起こっているらしい。その言葉の意味するところは正直分からないしどうでも良いと思ってる。どのみち、この梨湘とは全く別世界の話だから、理解しようにも二重も三重もの無理がある。けれども、わたしはその「ナンチャラカンチャラ」とやらが持つ、この地では決して許されないどこか卑猥さすら帯びる魔性の響きにどうしようもなく惹かれていた。それは理屈ではなく、憧憬にも畏怖にも似たようなカオスな感情そのものだったが、どうしたものか、そのただひたすら盲目的な感情にわたしは突き動かされ、ついには父親が往生をなさった翌年に、留学に至る次第であった。

 しかし、けいちゃんはとうとう梨湘を出ることがなかった。なぜなのか、理由を教えてくれなかった。わたしも聞こうとはしなかった。聞く勇気がないというか、聞いてもどうせ答えてくれないというか、何はともあれ、けいちゃんはとうとう梨湘を出ることがなかった。どうも噂に聞くと家業の料理屋を継いで結婚したらしい。それは結構大変だなと思った。しかしけいちゃんちが料理屋をやっていたなんて、わたしは全然知らなかった。そう思うと、幼なじみほど虚しい概念がないように思えてきた。そしてこうして改めて連絡しなければならない時期が訪れると、今まで一体何をしてきたんだと、母親からもらったけいちゃんの連絡先を眺めながら、ひどく後悔の気持ちが中に生まれてくるような気がした。そしてわたしたちはいつも通りの街角の定食屋ーーどうやら、それが色々と経営難で潰れてバーになったらしいーーで落ち合うことにした。

 時がやってきて、私は扉を叩いて店の中へ入った。思った以上にひどいバーだった。くすんだ色味がよくウケていた昔の内装がもはやすっかり面影を消し、不規則に明滅を繰り返すネオンに取って代わられていた。金属製のテーブルの上に行儀よく設えられているタッチパネルが放つ不気味な青い光に導かれて、わたしは席まで案内された。アイアンフレームから僅かに感じた人肌の暖かさがとても気持ち良かった。水を飲みながらぼーっとコンクリート打ちっぱなしの天井を眺めていると、すぐにけいちゃんがやって来た。無言で一つ会釈すると、彼は向かいの席に腰を掛けた。そして、

 「よ。ライター持ってるん?」

 と、言葉少なに声を上げた。

 「……え?」

 「まぁいいや。店員さん」

 一切の淀みを許容することなく、気持ち悪いほど自然に会話が進んでいった。すると、合い言葉でも交わしたかのように錆びた銀色のライターが運ばれてきた。けいちゃんは慣れた手つきでポケットの中から煙草を一本だけ取り出して、乳首を貪る赤ん坊のように尖った口先に吸い口を嵌め、店員からもらったライターで火をつけた。嗅覚神経に突き刺さるような刺激的な匂いと共に、たちまち煙が立ち込めた。

 わたしは愕然とした。この唐突な流れや、少しだに噛み合いそうにない会話にではなくーーけいちゃんは重篤な慢性気管支炎患者で、たとえ十年経とうと、煙草など到底吸えない体質のはずだった。

 「常連でねぇ、贔屓してくれるんだ」

 困惑した私のために、男は得意げに如何にも的外れな説明をしてくれた。煙草の先に揺らぐ微かな焔に照らされ、わたしはようやく辛うじてけいちゃんの顔を識別できた。とても三十代とは思えない皺だらけの荒んだ顔だった。

 「で、話ってなんだ」

 ゆっくりと急かしてくるように言うけいちゃん。ここがどういう町なのか、目の前の男を見てわたしは少しずつ思い出して悲しくなった。

 「……いや、別に大した話じゃないけど。久しぶりだから、最近どうかなぁって」

 「まぁ、ぼちぼち」

 「そうなんだ。それはよかった」

 「うん。で、話ってそれだけか?」

 わたしは潔く諦めた。

 「いや、実は……」

 それからどれほど喋ってたかはもう覚えていないが、とりあえず数十分の間はずっと喋り続けていたような気がした。その間に店員さんが酒とつまみと酒を運んできては去っていき、気が付けばコップの中がまた空っぽになってしまった。異国での見聞、今の生活、帰省の経緯。幸せな人生ほどくだらないものはない。わたしの話を聞きながら、けいちゃんはただ目を細めて、煙草を吹かしてはあくびと咳を繰り返すのだった。

 「へぇ、そうなんや」

 大袈裟な訛り。興味なさげにふわぁと欠伸をひとつこぼす彼の前で、煙もまたふわぁと、わたしたちの間にふんわりと宙に浮いた朦朧たるとばりを下ろした。そして、

 「いいじゃん」

 と、数秒後に、気持ち悪いほど綺麗な標準語でこれだけ付け加えた。

 「……うん」

 わたしはわたしを見ていないけいちゃんの目を見た。その虚ろな目は灰皿に向けていた。すっかり中身を搾り取られた吸い殻を指先でつまんで、潰すように灰皿に押し付けると、けいちゃんはポケットの中からもう煙草をもう一本取り出した。

 「で、もう帰ってこないの?」

 「いや……特に何かが変わるというわけではないけど」

 「へぇ」

 「だから……また遊びにくるよ。そうだな、今度こそは梨湘大劇場に行ってみようか」

 わたしは疲れた。親友相手に喋るのはここ十年で一番疲れた。それでも最後に、わたしは目一杯の笑顔を拵えた。それは職業柄の愛想笑いではなく、本物の笑顔だと誓う。よく勘違いされるが、作り物の笑顔でも、笑う行為そのものが作り物とは限らないから。現に嘘偽りなくわたしは切実に本心を訴えているわけだ。しかし、その笑顔はきっとひどく見苦しいだろうと思った。本物だからこそ、ひどく見苦しいだろうと思った。だからけいちゃんもつられて、ひどい笑い声を漏らした。造作もない澄み切った苦笑いだった。それから少しだけ気まずい時間が流れた。しばしの沈黙を経て、淀んだ空気をかき混ぜるように、煙やら吐息やらをもらしながら、けいちゃんは再び口を開けた。

 「梨湘大劇場、もう潰れたんだ」

 「……えっ、そうなんだ」

 もう少し驚いた反応を見せたかった。事実、けいちゃんのその一言から、わたしはいと容易く無数にありえた過去の可能性を想像できた。しかし、どれも悲しい結末でこそあれ、さほど驚くに値しないと気づくまでに時間を要しなかった。

 「まあ、四年前のことだけどね」

 けいちゃんは親指と人差し指で挟んだ煙草の先端に溜まった灰を落とすべく、中指を小刻みに上下しながら、わたしを嘲笑うように淡々と事実を述べる。その責め立てから逃げるように、わたしは急いで灰皿に落ちていく灰の粒々の方に視線を向け、「それは残念だね」と小声で返した。

 「うん。残念だね」

 初っ端から弾みそうになかった会話が、とうとう波の底まで沈んだかのように冷え切った。硝子のコップに注がれていく水と底で溜まっていく水が小気味良くぶつかるノイズ音が、きりきりと脳みそをかきむしってくる。この耐え難い時間が数秒も続いていると、わたしはいよいよ余裕がなくなり、冷や汗をかきはじめて、せわしく次の話題を探し出した。

 「じゃあ、脚本を書く仕事はどうなったんだ」

 「やめた」

 「……そうか」

 わたしはため息をついた。なんとなく察知してはいたが、本人の口から聞くとやはりより一層生々しい悲しみが増すような気がした。しかし幸か不幸か、その現実を知った今では、目の前の男の落ちぶれっぷりが信じられないぐらい腑に落ちている。

 「外からの仕事も受けりゃいいのに……もったいないよ、けいちゃんの熱意と才能がーー」

 と、そこで。けいちゃんは咄嗟に胸を押さえつけて、思いっきり咳き込むのだった。心配するなと、すぐに手を大きく振ったが、咳と痰とともに吐き出された唾液と煙が微かに血の匂いを帯びていて、とても大丈夫な様子ではなかった。ああ、この男の顔を見よ、とわたしはそう自分にそう言い聞かせた。その男は、生まれながらして母親より授けられた蓊鬱たる眉頭の間にくしゃくしゃと皺を寄せていても、眉尻がちっとも吊り上がっていないばかりか、むしろ深く深く上瞼の淵の方へと沈んでいる。わたしはよく知っているのだ。それは、耐え難き肉身的苦痛に耐えようとする人の顔ではなく、悲しみ深き精神的苦痛に歪んだ人の顔に違いないのだと。

 「ごめん……」

 わたしはその痛切な顔に後ろめたく思い、ほとんど泣き出しそうに謝った。

 「……なんで謝るの?」

 けいちゃんはゆっくりとその悶えている顔をかろうじて上げると、くつくつと冷笑を放ったのだった。乱反射する青と紫と緑を散々浴びたその素焼きの顔は、ひどく残酷な形相だった。夜の街角には魔物が潜んでいると言われるが、その魔物は今、顰めた眉の真っ下から、銀色のつやを焚いた二枚の瞳を顕わにして、わたしを見定めている。その空間的広がりを無くした無機質な瞳に、わたしはただ息を呑むことしかできなかった。

 「……おまえ変わった」

 だんまりしたわたしを見て、けいちゃんはひどくがっかりした顔を見せ、悲しそうに口を開けた。その言葉に、わたしの胸が裂けそうになった。それからさらに数秒の時間が流れて、ようやく幾許かの赦しを得たのか、けいちゃんは大きくため息をついて、続けるのだった。

 「もう帰ってくれ」

 その口調がどこか重々しくて拍子抜けだった。何より苦しいのは、そのニコチン臭のする腐った吐息から、わたしは一点の悪意だに掬い上げることができなかった。わたしは絶望した。生殺しとはこういうことだったんだと。こんな穏やかな空気が流れているようでは、わたしはどうにかなってしまう。てっきり取り残されたこの十年もの時間が、彼の何もかもを蝕んだとばかり思い込んでいたが、煙草の毒に酔うようになったことさえ除けば、けいちゃんは以前から何一つ変わっていなかった。無茶苦茶で、融通が利かなくて、思い込みが激しく、それでいて絶望的に優しい男の子だった。しかし、今となって、そんな彼のことをひどく哀れだと思いはじめている自分がいる。その救いようのない感情が、わたしを激しくかきこんでいて、もう我慢できそうにない。

 「……お前は、このままでいいのかよ」

 わたしはとっさの怒りに身を委ねた。が、そんな偉そうな台詞を口にしたことをすぐに後悔することになった。けいちゃんの額に血管が青く浮かび上がっている。分かってはいたんだ。こんなことを言っちゃうとけいちゃんの逆鱗に触れてしまうと。

 「あ?」

 思いっきり胸ぐらをつかまれた。

 「事実を言ったまでだ」

 わたしは観念した。

 「そうか。外人の分際でよう言ってくれるな」

 すると顔を殴られた。

 「……やめて」

 わたしは赦しを乞った。

 「そうか!」

 するともう一発顔を殴られた。その衝撃がテーブルにも伝わってしまい、灰皿が軽く飛び上がった。わたし震えながら目をゆっくりと開けて、当たりを覗いたのだった。可笑しいぐらいに案の定、誰もわたしたちを見ていなかった。それもそうだ。ここでは誰もが他人の不幸に興味を持っちゃいけなかった。ゆえにその一点の亀裂だに許さぬ痛ましい叫び声さえも、必然的にたちまち塩味の漂う喧騒に揉み消され、終わりなき無関心の平穏へと帰る定めにあった。これは最高に気持ちの良い勝利だ。わたしは笑いそうになって、泣きそうになった。

 「もういい……おめでとう、裏切り野郎め。くれぐれも二度と帰ってくんなよ」

 震え声を少し落ち着かせて、けいちゃんはわたしをゆっくりと手放した。再び背を丸くして軽く俯いたその視線の先は、やはりあの灰皿だった。

 悲しいよ。けいちゃん。喉まで登ってきた言葉と苦い唾液を、ひりひりする顔の感触ごとに体の奥へと呑み込んで、わたしは黙ることにした。薄暗闇の中で、彼の顔が今以上にはっきりと輪郭を顕わにした。その醜く平な楕円の真ん中より少し上に、どんよりと曇ったようで爛々と光るような、獲物を定めた獅子がごとく血走った真っ赤な目玉がじっと二つ据わっている。ああ、その混沌とした仮象が含意する何たるかをわたしはきっと理解している。あの日の母親も、同じような目をしていた。しかし同時に、彼の下瞼に湛えられている涙の今にも匂いそうな塩臭さに、母親の眼窩に捉えられたあの日のわたしが感じた、嘔吐を催す恐怖にも似た酸っぱい感情が深く染み込んでいるような気がした。けいちゃんはきっとわたしが怖いのだ。わたしはとうとう目の前の男とどう向き合えば良いか分からなくなってきた。けれど、一つだけ確かなことがあると知れた。その瞳の内側に引きずり込まれたが最後、底なしの悲しみに溺れていくのだろうと。わたしは逃げたい。逃げなければならない。

 「……わかった。もう帰るよ。さよなら」

 その言葉に反応したかのようにギロリと動いたけいちゃんの瞳を見つめ返して、私は溜めに溜めた言葉をゆっくりと吐き出すように続けるのだった。これだけは、最初からずっと言いたかったんだ。

 「煙草、やめた方がいいよ」

 そう言うわたしから顔を背け、けいちゃんはわざと見せつけるように煙草を一口大きく吸って、またもや激しく咳き込むのだった。あまりにも予想通りの反応に、悲しみと憐れみを通り越してどこか滑稽さすら感じた。煙草を握っているその右手の親指と人差し指の隙間から、煙がゆらりと揺らぎながら天井へと昇って行った。白い煙が描いた酷く不安定な軌跡と数秒間にらめっこをしていると、けいちゃんが最後に発した言葉が聞こえた。

 「……くたばれ」

 その言葉に思いっきり背を向けて、わたしはバーを後にした。刺激的な煙が徐々に薄くなって行く中、ニコチン中毒者特有の耐え難い悪臭が今以上に鮮やかだった。わたしは知らなかった。幸運でいるという不幸が、こんなにも生々しい腐肉の味だったとは。

 翌日、わたしと母親は梨湘を発つ飛行機に乗り込んだ。今まで恋しそうにしていた母親の足取りが、わたしよりずっと軽やかだった。未練たらたらな顔しといて、いざ別れる際にはキッパリと立ち去る。昔から母親のそういうところがひどく不気味で、恐怖さえ覚えていた。微笑む彼女の瞳を覗くたび、そこにはいつも冷たく光る硝子体が映り出す不穏な残影があった。なんだろうと不思議に思っていたが、昨晩のランデヴーを思い返してみれば、ああ、下らないほど自明なことではないか。自分の影に決まっているんだ。親子だけあって、わたしたちは同じ血を分けた化け物だ。今なら、あの煙草中毒野郎がびびり散らかした理由もわかるような気がした。

 しかし、そう思っていると、いつしかあやふやな不安が確然たる恐怖へと化して行き、これまでに一度だに感じたことのなかった過去に対する罪悪感を交えながら、重くのしかかってきた。この際に、昨晩のけいちゃんの言葉がやたらと鮮明に蘇った。「おまえは変わった」。そして気が付けばその言葉の毒はもう既に全身を回っていた。すると、わたしの内なる罪悪感を疑惑の奥底に辛うじて優しく包み隠してきた感情のオブラートはもう、何から何まで穴だらけで、どうしようもなくなった。考えれば考えるほど、その尤もらしい疑惑はますます現実味を増していき、もはやただの現実以外のなにものでもなくなった。わたしはきっと変わった。変わり果てた。十年もの歳月にもまれ、誰かが背負ねばらならなかった不条理な痛みからさえ目を背ける人ならざるモノと化してしまった。きっとそうであるべきだし、そうであるに違いない。そうでなかれば、けいちゃんはあまりに救われようがなかった。

 だから、ごめんなさい。

 わたしは、昨晩の、そして昨晩よりも遥かに昔の、ありとあらゆる哀しみと苦しみにあふれた記憶と共に、けいちゃんと共に過ごした愛おしい思い出もすべて、ここに置き去りにしなければならないんだ。さもなくば、その暑苦しい煙草の煙に蒸されて、今にも血を滴らしそうな、飛び出んばかりの目玉が、きっとまた目の前に浮かび上がってしまうだろう。それは嫌だ。それだけは嫌だ。わたしにはもう、あの目をした人間は救えないから。

 しかし、どう飾ったところで、あんなけいちゃんを見てしまった以上、わたしは未来永劫、この恵まれた痛みに苛まれる運命から逃げられないのだろう。どこまでも追いかけてくる他人の不幸から逃走し続ける狂気じみた幸せと、その不幸に同情してはならない絶望と、とことんまで自分を追い詰めてしまう強烈なシンパシーゆえの苦しみ……それらすべてから、わたしはもう逃げられない。

 おかしいな……昨晩は、ようやくすっきりになれたと思ったのに。わたしは今、どうにかなってしまいそうだ。もしかすると、あのバーに足を踏み入れた時から、わたしはもう囚われていたのかもしれない。わたしはどうにかなってしまいそうだ。ああ、どうにかなってしまう。

 神様、神様。どうか、わたしの罪を赦してください。他人の理不尽な悲しみから、目を逸し続けなければならないこの罪を赦してください。その者たちの悲しみは、もしかすると醜い憎悪にさえ満ちているのかもしれない。いや、きっとそうであるに違いない。なぜならば、わたしはその悲しみにひどく吐き気を催しているから。しかし同時に、わたしは、己が不本意ながらも持ち合わせる、悪意の最たるものである非情をもってして、己が意図する形とは違う文脈ながらも、親友に癒えぬ傷を負わせたに違いない。そこでは、責任という概念はきっと何らの意味をも持たない。故に、わたしにはその理不尽さを否定する何らの権利をも与えられていないであろう。なぜなら、その者たちが抱えた痛みは、わたしの痛みでもあり、わたしが辿り得た未来そのものだ。わたしは、ただほんの少しだけ、その者たちより恵まれていただけに過ぎない。だから私は彼らを否定できても、彼らを救うことができない。彼らを救うことができない以上、きっと彼らを否定したが最後、その者たちの人格や品性の何たるかとは関係なしに、わたしは夥しいほど他責と自責の責め苦に嬲り殺されてしまうに違いない。ああ、神様、神様、神様ーー

 「当便はまもなく出発いたします」

 わたしの懺悔を打ち切るように耳触りのいい女声アナウンスが流れると、飛行機は今にも滑走路を走り出しそうに、エンジン音を鳴らしつつ機体を震わせ始めた。その声の無頓着さに、わたしはほんの少しばかり救われた気分になった。きっと、その声はわたしの罪を許してくれている。偽りなき平等の無感情で、すべての乗客を迎え入れている。わたしは、その理性の波に感情を沈めようとしている。

 「はじめて飛行機に乗ったときのこと、覚えてるのかな」

 そんな折に、母親は窓の外を眺めながら、嬉しそうに口を開けた。子供の頃は必ず窓側の席に座らせてくれていた母親だが、今日は一番窓に近い席に座っているのだった。

 「うん、覚えてる」

 「すっごい騒いでいて、どうしようって困っていたの」

 「ハハッ……」

 「それがねぇ、こんなに立派になって……」

 そう言って、母親はわたしの手を握って、窓ガラスに映るわたしの顔を見つめるのだった。わたしも彼女の視線に合わせるように窓の方に顔を寄せてみようとしたが、ちょうど離陸滑走が始まったところで、機内から明かりが消え、夜に輝く水晶のような窓にぼんやりとした二人の顔のシルエットだけが微かに映っていた。それからしばらくわたしたちは言葉を交わすことなく、お互いの手の温もりを感じながら、いつにもまして静謐な空気に包まれている梨湘の夜をひたすら眺めていた。

 「けいちゃん、元気だった?」

 昔から親の前では寡黙な人間で、沈黙を破るのは決まって母親の方だった。口にこそしなかったものの、この一問一答のような会話を続ける関係を心から愛していた。けれど今、わたしは母親の質問にどうしようもないゾッとするような寒気を覚えた。一瞬、少年時代のけいちゃんの顔がまた脳裏をよぎってしまった。そのとてもとてもきれいな顔立ちが、今やとてつもない怒りと悲しみでひどく歪んでいるように見えた。暗闇さえ吸い込む真っ黒な瞳、虚ろな穴をガタガタ震わせる鼻、びくびくと小刻みに引き攣る血の気のない唇、それらが皆わたしに向かってこう叫んでいるーー

 「……元気だったよ。『おめでとう』って」

 「よかった。君たちは祝福された梨湘の子、きっと幸せになるんだ」

 加速する機体に引き摺られていく席の背もたれが、今にも墜落しようとするわたしの背中を受け止める。あわれみ深き故郷の大地が、未だに諦めずにわたしを引き留めたがっているようだ。いっそ自棄になって声高で勝ち鬨をあげたいこの病的な感情を、最後の一欠片の理性で辛うじて堪えながら、わたしは梨湘の夜から目を背けた。母親もいよいよ口を噤むようになり、ただひたすら子猫を愛撫するが如く右手でわたしの腕をゆっくりと摩りながら、眠るように目を閉じた。薄暗がりの中で、「人でなし」も、「売国奴」も、「裏切り野郎め」も、この温かな感触によって上書きされていくような気がした。