夜な夜な黒魔術屋

GENERALS GATHERED IN THEIR MASSES, JUST LIKE WITCHES AT BLACK MASSES

私なりの『魔女こいにっき』の楽しみ方 その壱

 諸君はどんな思いでこの作品を手に取ったか私には知る術がない。新島氏のファンだからかもしれないし、単純に口コミで興味を持ったからかもしれないし、店頭で偶然出会って一目惚れしたなのかもしれない。まあ、いずれにせよどこかしら魅力的に思えるところがあったに違いないだろう。発売から6年が経ち、ある程度評価も固まった昨今では、今さら本作の魅力など紹介する必要はなかろう。よって本記事では、そのような販促的な話は一切せず、どちらかといえば、『魔女こいにっき』(「魔女こい」とも)をプレイされてあまり面白くなかったなあという方向けに、淡々と私なりの楽しみ方を紹介する記事になるかと思う。結果的に、未プレイの方でも本作に興味を持っていただけたら幸いだが、あくまで楽しみ方というか、私という個人の魔女こいとの向き合い方の話がメインなので、少し退屈に感じられるかもしれない。それと、本作は謎解きゲーではないので気にするほどでもないと思うが、多少のネタバレはあるのでどうしても嫌だという方は読まないように。

(注:本記事で言う魔女こいは、CS版こと『魔女こいにっきDragon×Caravan』

 

はじめに

 目次というか、これから書きたいテーマを載せておこう。今回は上の三つの話題について触れる予定だ。

 

 ★新島夕について

 ★『魔女こいにっき』というタイトルについて

 ★物語の舞台について

  #東国の魔法使いと狂気のキャラバンー『崑崙茶』と『魔女こいにっき』ー

 ★「愛する女」たちについて

   #報われることを恐れる放浪者の愛ー藤田崑崙と『マルテの手記』ー

   #男女の仲暗き川が如しーアリスと『蜻蛉日記』ー

   #やがて触れられざる清冽な結晶へー真田甘楽と『マルテの手記』ー

 ★ロマンチストたちについて

   #陳腐な愛よ永遠なれー南乃ありすと『ベンジャミン・バトン』/『君に読む物語』ー

 ★理想主義者たちについて

   #若人よ深淵そのものになれー『若き詩人への手紙』と『魔女こいにっき』ー 

   #愛すべき嘘つきー『ビッグ・フィッシュ』と『魔女こいにっき』ー

 ★「加藤恋たち」について 

 

新島夕について

 新島氏はありきたりなお話を語るのが上手な方という印象を受ける。奇をてらった設定を盛り込んだキャラクターより、シンプルでどこにも居そうなキャラクターの方が魅力的に書かれることが多いように思われる。氏の作品もまた一見して陳言ばかりだが、往々にしてそこに練りこまれた独特なアレンジが加えられていて、読み応えがある。

 新島氏の作品の魅力はテキストや物語の運びそのものにあらず、氏の作品の登場人物がふとしたきっかけで吐いた諦観とも捉えられる一言と、その登場人物の身の上とを照らし合わせたときにしみじみと湧いてくる物悲しさに見出すことが多い。この性質上、氏の作品は往々にしてキャラクターの人物像を抽出した上で、エピソードごとに語られることが多い。

 新島氏の他の作品をプレイされたことのある方なら、ついつい魔女こいとそれらの作品を比較してしまうかもしれない。それは「新島夕が描いた魔女こい」を評価するという意味では真っ当な基準だろうが、魔女こいという作品そのものにとってはアンフェアであろう。無論、作者は作品を語る上で重要な存在なので、そういう意味ではステレオタイプの評価もまた妥当なのかもしれない。しかし、「新島夕」というたった一つの指針だけでは到底魔女こいを語り尽くせないと痛感している自分がいる。故にこの記事の内容は、魔女こいを執筆するにあたって新島氏が実際に考えたことというより、新島氏の考えに近いかもしれない、一種の私の執念・妄想にすぎないと予めここで断っておく。考察でもなければ、感想でもないが、魔女こいをより楽しめるかもしれないもう一つの「視点」を提示することが目的である。

 

『魔女こいにっき』というタイトルについて

 『魔女こいにっき』はざっくりと「魔女」・「こい」・「にっき」の三要素に分けられる。この三つのキーワードは一見してバラバラなように見えるが、実は密接に繋がっているのがこのタイトルの醍醐味だと言えよう。西洋では嫉妬に狂う女の成り果ては魔女だとよく言われるし、またこの国では日記という女性の怨念といった内面的感情をしたためることに長けた古典文学の体裁が存在する。和洋折衷というよりは、恋に狂わされた女性を表現するのに労力を惜しまない意思の表れと考えられる。つまり、タイトルの時点ですでにアリスなる存在が仄かに示唆されているが、もちろん読み手が初っ端からそれに気づくのは難しい。あとで詳しく説明するが、この作品は恋・物語・東西といった概念を相対化しているところが大変面白い(新島氏が意図的にこのように工夫したとまでは主張しない。意図的なのかもしれないが、私には知る術がない)。タイトルのセンスは極めて秀逸である。

 

物語の舞台について

東国の魔法使いと狂気のキャラバンー『崑崙茶』と『魔女こいにっき』ー

 藤田崑崙の設定を思い出してほしい。この子は東国出身の魔法使いで、ジャバウォック王のキャラバンの一員である(PC版ではジャバウォック王の過去について多く語られていないが、CS版では非現実的な享楽に耽ることを咎められた彼は国から追放され、后のアリスをはじめとする彼の信者からなるキャラバンを率いて放浪していたことが判明)。東国の魔法使い、キャラバン、崑崙といえば、私が最初に思い浮かべたのは夢野久作の短編小説『崑崙茶』だ。この作品は『青ネクタイ』とともに、精神病者の不気味な笑いを描く短編として『狂人は笑う』に収録され、青空文庫で読めるようになっているので、夢野久作に興味のある方にはぜひ一読してほしい。

 ここでも『崑崙茶』を簡単に紹介しておこう。この作品の中では卒論に悩殺され、精神を病んで入院してしまった東洋学を専門とする学徒が、「婦長」と思しき存在に向かって、大陸からの魔法使いの留学生が自分の薬に中毒性が極めて高いとされる幻の「崑崙茶」のエキスを投入し、自分を迫害しようとしているとひたすら訴える滑稽な様子が描かれている。しかし、終始「婦長」なる存在が一言だに放っておらず、対話のように見えて実は狂人の独り言でしかない、そんな狂気ぶりが垣間見える文体である。狂人によると、崑崙山脈の奥の秘境にある「崑崙国」という道楽で滅びの一途を辿った伝説の国の跡で極上の茶っぱが採れるが、その茶っぱで淹れたお茶をたった一度でも飲んだ人は皆悉く病みつきになり、何度も飲みに行くうちに財産を使い切り心身ともに廃人になってしまうとのことである。無論、そんなお茶は実在しない幻そのものであり、全くもって狂人の妄言にすぎないが、繊細な描写と自然体の語り口とが相まって、読んでいると「崑崙茶を追い求める狂気のキャラバン」がなぜか真実味を帯びてくる大変面白い作品だ。

 さて、『崑崙茶』と『魔女こいにっき』が直接つながりを持っているかどうかはさほど重要ではない。少なくとも、両作品が同じく「崑崙」の伝承をモチーフにしていることが明白であろう。そもそも崑崙という言葉自体は滅多に使われないので、ただの偶然とはとても思えない。また、砂漠の真ん中のどこかにあるとされるユートピアのような崑崙の秘境(『崑崙茶』の「遊神湖」、『魔女こいにっき』の「オアシス」)にたどり着くには、キャラバンを率いて長い旅をしなければならないという点においても両作品は一致している。滅ぼされた古の国と魔法使いに関しては、私の知る限りでは「崑崙」の伝承そのものに関係がないはずなので(あまり詳しくないが)、たまたまどちらの作品にもモチーフとして採用されただけなのかもしれない。ただ、個人的に凄く興味深いのは、「キャラバン」・「古の国」・「魔法使い」といった要素に対する新島夕の扱い方が、夢野久作のそれに非常に似ていることである(パクリと言いたいわけではない)。いつの時代においても、メルヘンの「旅」に幻の国と魔法使いは付き物だなと改めて認識させられた。

 もう一つ面白いなぁと思ったのは、二人とも「崑崙」という東洋の神話物語に、西洋的な存在である「魔法使い」を取り入れているところ。「幻術」や「奇術」といった言葉が選べる中、「魔法」のチョイスは中々面白いと言える。もちろん、「崑崙」の伝承に馴染みのない読者層を考慮すると「魔法使い」の方がわかりやすいという意見はごもっともで、作者も実際のところ伝わりやすい言葉を選んだだけなのかもしれない。しかし、イメージとしては、百鬼夜行の退治に黒魔術の使い手を遣わしたというような混沌たる世界観である。これは他のファンタジー作品にも言えることだろうが、我々は何も考えずにこのような事態を受け入れてきたわけなのだーー別に悪いことではない(むしろ自分としては歓迎したいところだ)。このような無意識的な東西(東洋・西洋)の相対化は、物語を虚構の方向へと突き動かしている。東洋ファンタジーより、いわゆる伝奇モノのような如何にも大和らしい物語の方がリアルっぽいと思わないか?どれも「虚構」だとはっきりとわかっていても、何故か後者の方が実際にありそうだなって思えてしまうのだ。その理由と言えば、後者の方が世界観としての一貫性があると我々は潜在意識の中ではちゃんと理解しているからだ。この意味では、「魔法使い」という元来東洋の物語にとって異質な存在は、『崑崙茶』における主人公の狂人ぶりを浮き彫りにし、また、『魔女こいにっき』におけるジャバウォック王の物語が如何に幻であるかを物語っていると言えよう。

 この結論を受けて、『魔女こいにっき』の物語の舞台について考えるとしよう。「崑崙」・「オアシス」・「砂漠」といったキーワードおよび藤田崑崙のエキゾチックな衣装と生い立ちから察するに、恐らく幻のオアシス都市の存在が噂される中国の奥地(主に「崑崙」の伝承に関わるタリム盆地あたり)から中央アジアにかけての地域が舞台のモデルになっているのではないかと思われる。しかし、同時に彼女は自分のことを桜が咲く東国の魔女だと明言しており、その東国とは無論日本のことを意識していると考えるべき。要するに、これも一種の相対化である。日本でもあり大陸でもある、または、日本でもなく大陸でもない、世界中のどこを探してもきっとありやしない幻の東国に生まれた少女。そしてそんな彼女が訪れたジャバウォック王のサンクチュアリという国もまた、中央アジアと思われる広大な砂漠の中の幻に過ぎず、地図上のどこにもない「物語そのもの」だ。

 いやいや、それ二次元の作品全般に当てはまるやろと突っ込まれるかもしれないが、『魔女こいにっき』に限っては、そんな一般論だけでは収拾がつかないと思われる。

たくみ「お前はどこで生まれた」

崑崙「さぁ……」

崑崙「風はどこで生まれたのでしょう」

たくみ「ふん?」

たくみ「崑崙…だったか。お前は長い時を生きる魔女だという。長く生きれば、生まれのことなど、忘れてしまうか」

たくみ「ならば、生まれでなくてもいい。故郷と言える町はないのか」

崑崙「……」

崑崙「風はどこでも風でしかありません」   

 ここだけ読むと、崑崙はたくみ(ジャバウォック王)のように詩的な表現を好んで使っているように聞こえなくもないが、どうもそんな単純な話ではないようだ。

ブラゴン「僕も藤田崑崙も、生まれた国は違うが、似たような存在だ」

ブラゴン「形のない、力の源泉……物語の源泉のような何かだった。それそのものに、形はなかった」

ブラゴン「彼女は大陸で、神父に出会った」

ブラゴン「僕は砂漠のかたすみで、竜の巫女とであった」

ブラゴン「そうして彼ら、彼女らに語られることによって、こうして形をとるまでになった」

 ここでようやく崑崙は「大陸で」神父に出会ったという具体的な情報が得られた。この神父は彼女が「奴隷として売られていたところ」を救った人物で、養親のような存在である。先述のように、この「大陸」とは、恐らくユーラシア大陸、とりわけ「崑崙」の伝承に関わる中国の奥地(タリム盆地)から中央アジアにかけての地域のことを指していると思われる。そして次のセリフは決定的だ。

崑崙「あなたは物語の姿を知っている?」

たくみ「物語の姿?なんだそれは」

崑崙「イメージの話よ」

崑崙「愛を描こうとすれば、それはきっと、天使の姿をしているだろう」

崑崙「不幸を描けば、悪魔の姿をしているだろう」

崑崙「じゃあ、物語は何?物語ってどんな姿をしているの?」

崑崙「それはきっと、ドラゴンの姿をしているの」

崑崙「ドラゴンっていうのは、実に不思議なイメージよね。時々の印象も千変万化する」

崑崙「は虫類でもあり怪鳥でもあり、知性を抱いた賢者であり、かと思えばどう猛な魔王でもある」

崑崙「火を噴けば、氷だってふける。風を起こし、地響きを起こす。空を飛べば、大地を闊歩する」

崑崙「ドラゴンってやつは、それ自体が一つの物語なのよ。描くものによって、なんにでもなり得る。壮大で、古より人の憧憬を生む」

崑崙「誰もがイメージすることはできるが、しっかり描こうとすれば、意外と難しい」

崑崙「どこかに存在していそうで、決して、どこにもいない」

崑崙「そして、物語とは、つまり竜だったのよ」

 ブラゴンのセリフと併せて読むと何かが見えてくるだろう。CS版をプレイされていない方のために説明しておくと、ブラゴンとはアリスと契約を結んだドラゴンのことである。ブラゴン曰く、崑崙と自分は同じような存在(=物語の原初の姿)であり、そして崑崙曰く、そのような存在は想像一つで容易く変わるものだ。「どこかに存在しそうで、決して、どこにもない」、そんな物語そのものこそが藤田崑崙というキャラクターの真の姿である。そして彼女に見られる日本でもあり大陸でもあるという「東国の相対化」は、その事実に対する動かぬ証拠だ。

 ではそろそろ結論に入るとしよう。結局、この物語の舞台って何なんだ。答えは想定し得る幾つかの選択の中でも恐らく最もつまらないものだろう。それはつまり、「空想そのもの」だ。『崑崙茶』の世界観は狂人が作り出した空想であるように、『魔女こいにっき』の舞台もまた新島夕という狂人が描いた幻覚に過ぎない。そこには夢オチに近い何かがある。

崑崙「魔女こいにっきとはなんなのか」

崑崙「それは、あなたや私達がいる、世界そのものへの問いかけだわ」

崑崙「世界は何なのか」

崑崙「世界の真理とはなんなのか」

崑崙「それを知ったら、きっと、誰も存在することなんてできない」

崑崙「知れば終わり……そういうものなんだわ」

 ここの『魔女こいにっき』は作中の魔導書であり、魔女こいという作品そのものでもある。明晰夢という例外を除けば、基本的に夢は夢だと分かったら終わってしまうものだ。『魔女こいにっき』もまた夢のようにひどく脆い存在で、「虚構じゃん」「嘘じゃん」と言ってしまうと、否応なしに幕が閉じる。しかし、その「虚構」と「嘘」にも実は意味がある。これは魔女こいの根幹にあるテーマにかかわってくるので、「理想主義者たちについて」(目次参照)の一節でまた詳しく説明するが、基本的に新島夕は理想主義者を肯定するスタンスである。口だけが達者の野郎だろうと、法螺吹きだろうと、その者たちの言葉には「桜の花びらが人を慰めるごとき」価値がある。

 君は聖女だと、神父はいいます。その力は神様より特別に授かったものだ。なぜ神がそれを授けたかというと、救済をさせるためだよ。(中略)例えば、ひらひらの桜の花が舞う。それを誰かが見て美しいと思う。それはささやかながら、確かに救済だ。けれどその救済によって、誰かが傷つくことはきっとないだろう。神がなす救済に比べれば、君がなす救済とは、ひらひらの桜の花びらが人を慰めるごときのものということだよ。

 これは神父が崑崙に「救済しなさい」と説くシーンの抜粋である。崑崙に授けられた救済の力とは何か、先ほどの議論を踏まえて考えればすぐわかるだろう。そう、彼女はブラゴンよろしく、「物語」の力を持っているのである。つまり、神父は崑崙に対して、物語をもって他人を救いなさいと説いているのだ。そして、物語(虚構、もしくは嘘)による救済は花びらのように、ただ美しいだけで、何の役にも立たないが、「ささやかながら、確かに救済だ」ということだ。

 いやいや、花びらが舞い落ちる景色に悲しい思いをする人もいるだろうし、綺麗事ばかり言う連中にムカつく人もいるだろうと、突っ込みたくなるかもしれない。仰る通り、皆が皆で耽美主義者とは限らないので一見して確かにおかしな話だが、新島氏の「花びら救済論」はあくまで「瞬間」に限定した話なんじゃないかなと私は思う。桜が散るのを見て、自分の境遇をそこに重ねると、そりゃ悲しくなるだろうが、何も考えずにただ見ているだけなら、誰も傷ついたりはしない。いやまぁ、このような救済は結局一瞬だけの慰めにしかならないよねと言われるとそこまでだが……

 ここで本節の本題に戻ろう。何を言いたいかというと、『魔女こいにっき』という物語の舞台はメタ的な意味を持つ以前に、物語の内部で完結しているよということだ(少し抽象度が高いかもしれない)。ジャバウォック王に呪いをかけた魔導書『魔女こいにっき』が登場人物たちに幻を見せる以前に、魔女こいという作品自体は舞台から登場人物まで何もかもが幻そのものなのだ。更に言えば、本の読み手と本の書き手の関係性、ないしはゲームプレイヤーとヒロインの関係性云々よりも、嘘でも美しいだけで価値があるということを新島氏が伝えたいのではないかと私は思う(ただし、メタ的な解釈を否定したいわけではない)。無論、氏の考えをどう受け止めるかは人それぞれだろう。アリスのように瞬間的な美しさより真実の永遠を求める人もいれば、崑崙のように瞬間的な美しさの連続に満足する人もいるだろう。あんな嘘ばかりの王様もきっと、この虚構に関するテーゼを最大限に活かすために登場させたに違いないーーまさしく夢野久作が『崑崙茶』の世界観の狂気ぶりを表現するために精神病者を主人公に選んだのと同じように。

 そして『崑崙茶』と『魔女こいにっき』を読んだ我々はこんな風に思うかもしれない。狂っていようと嘘をついていようと、美しいものはやはり心に響くんだなぁ、と。人生の寂寥を活字で耐え忍ぶ人間なら、誰しもが共感してくれるのではないか。

 

(つづく)