髪はゆふゆふと肩の程に帯びて、かたちもすぐれ、たのみしき様なるを、其れよと見るに、きと胸がつぶれて、いと口惜しく見たてる程に、此の子の我が方を見おこせて、「いざなん、聖のある、おそろしきに」とて内へ入りにけり。
ーー『発心集』
受験生だった頃に河合塾のテキストで西行法師出家の話を読んだ。確かに基礎シリーズの第一講だった。古典文法さえ消化しきれなかった私にとって、古文は奥の奥の暗い森のまた奥よりも深い暗闇の底に眠っている綺麗な宝石のようだった。煌めく耽美的な妄想の果実を一人の異邦人としての私が掴もうとしても、遠くて儚いあまりに、掴む術も知らず、心細くて怖かった。
そんな私の緊張感を解してくれたのは、古文担当の池田先生の花子ちゃんと太郎くんのイチャラブストーリーと馬鹿みたいに上手くて面白い絵だった。池田先生のお陰でサクラを咲かせた!との合格体験記を残した、古文の試験が課されていない慶應義塾大学文学部に受かったお嬢さんの話は今も覚えている。さすが慶應卒の池田大先輩だなと思った。
さてお嬢さんの話はここまでにして本題に戻るが、とにかく、叫んで笑ってふざけて古文の世界に泥酔するがいい、と池田先生はこう教えてくれた。私はわりと耽美主義者なのですぐにその言葉に惹かれて古文の世界に溺れていった。読解力がなかったため現代語訳を読みながらこの西行法師の物語の品詞分解を試してみた。何度も何度も、同じ文を繰り返し読んでみた。心は狂気にさえ染まった。けれど私はただただこの切なくて美しい父娘の別れを愛している。
なぜだろう、と私自身も不思議に思った。あまりに淡白な記述で、およそ現代小説の精緻な心理描写に当たるものが何一つ見当たらないというのに、不思議なことに引きずり込まれる。なるほど、表に出ない感情の豊かさこそが東洋社会の古人たちの浪漫であろうとつくづく思うのだ。その証拠に、日本に限らず、中国にもこんな浪漫があったことが挙げられる。「千呼萬喚始出来/猶抱琵琶半遮面(千呼萬喚始めて出で来たり/猶ほ琵琶を抱きて半ば面を遮る)」と。そうとも、今やすっかり落ちぶれたかつての名妓が引く琵琶の調べに叶わぬ志を抱くわが身を嘆く自分の思いを重ねた、白居易の『琵琶行』だ。やはり東洋人はこのような神秘的な美に浪漫を感じずにいられないだろうか。
しかし実在する事象の話ならまだわかるが、物語という抽象世界における「表に出ない」とは一体どういう意味だろう。書かれていないことは書かれていないし、勝手に深読みをしては駄目だというのに。ならば、行間の含みという意味だろうか。いや、それもそれで怪しい。隠喩でも風刺でもなければ、何かを隠そうとししているわけでもなく、物語は明白で軽快だからこそ物語と呼べる。
和歌ならわかりやすいと思うが、掛詞などの技法を使い、風流な「表」の言葉に託し、「裏」の本音を隠しながらもそこにたどり着くためのヒントを提示してくれる。これもまた一つ古文の「表に出ない」醍醐味だと思う。けれど物語は違う意味で「表に出ない」。ラーメンもきっと同じだろう。こってりもこってりで味が濃厚で美味いけど、時にもあっさりが欲しくてたまらない。現代の小説はこってり系であれば、古代の物語はあっさり系。古文の物語には飾りなど要らぬ。ただ淡々とストーリーが勝手に始まり、勝手に突き進んで、また勝手に終わるだけ。小説ならば多少なりとも情景や心理の詳細な描写が書かれるが、古文の物語はそれを許さない。まさしく映画のように言葉の表現は限りなく凝縮されている。
しかし、映画と物語が似てるかというと、そうでもなかろう。映画は代わりに視覚的表現が用いられるのに対して古文の物語は専ら言葉に縋るよりほかはない。なのに、古文の物語は少しだにその唯一の表現媒体が持ち得る力を誇示しようとしない。だからこそ、古文の物語は物足りなくて、奥ゆかしくて、どこかの中継点で全てが途切れてしまい、終わりを迎えて沈んでいく。ただ何の救済ももたらしてくれない風のように、花びらをひらひらと踊らせるべく静かに通り過ぎるだけなのだ。小説は±1、±2、±3…±n…のように人の心を動かすとすれば、物語の美しさはきっと0のような「無関心の美」に通じよう。「『いざなん、聖のある、恐ろしきに』とて内へ入りにけり」。なるほど、西行の娘は西行の顔を覚えておらず、恐るあまりに彼の視線から逃げたのだ。なるほど、ストーリーはこんなオチなんだ。しかし、そのような目にあった西行の心情もその場での西行の行動も、物語は教えてくれない。「へえ、面白いな」「へえ、可哀想だな」と私たち読み手は勝手に思うだろう。あまりにも淡々としているのでそれ以上感情が揺さぶられることはなかろう。衝撃のような、強烈な何かに襲われることはおそらくないだろう。こんな風に、微かに「0」の存在を意識させてくれるだけだ。
しかし、吹きすぎた風に心が打たれる人が居なくても、風に乗ってひらひら舞う花びらの美しさを我々誰一人として否定できない。そうしたあっさりとした結末に私は咄嗟にサクラが散っては咲くところまで想像してしまった。それは強烈な映像ではないものの、一瞬だけでも私は確かに悲しくなったり嘆かわしくなったりしたのだ。そして改めて考えてみると、そこに古文の物語が求める美意識があると思い至った。
ああ、そうか、これが物語か。良くも悪くも、そんなことが起きたのか。なるほど、なるほど。