夜な夜な黒魔術屋

GENERALS GATHERED IN THEIR MASSES, JUST LIKE WITCHES AT BLACK MASSES

『夏夢夜話』のすゝめ

 唯心論的頽廃と諦観、淡々としたテイストのテキスト。KIDという無邪気な響きに不相応なほどにメロウなほろ苦さがまるで魔法のように、子供だったぼくを退屈な日常から連れ出してくれた。完全無垢なフィクションなのに、七割七分の真実と二割三分の法螺を織り込んだ十分十全の狂気が常にそこにあった。現実そっくりで、少しも嘘の入る余地はなく、そしてぼくはKIDの毒にやられた。その証拠に、ぼくの脳裏に印刻された少年時代の走馬灯の、パズルのような断片の一つ一つにKIDの残影が幾度と写りこんでいた。『メモオフ』と『マイメリ』と『Infinity』と、長いトンネルを次々と走り抜けていくと、その先には初めてひとりぼっちで過ごした夏休みの記憶があった。『夏夢夜話』だった。

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 「偽りの心…くりかえす想い」。ぼくのすべてが始まった場所、ぼくのすべてが狂い出した場所、フェルネラント。水無神知宏と田中ロミオの並びが意味するところを少しも理解できなかったその時から、ぼくは既にノベルゲームの悪魔に魅入られはじめていた。ぼくがこよなく変態的な詩的表現を愛してやまないとんだダメ人間という何とも申し上げにくい事実を差し引いても、水無神知宏から打越鋼太郎までの全てはぼくの少年時代そのものであるという揺るがない結論には至ると誓おう。

 しかし、好きという感情は、実に大変不思議なものである。時代は常に進歩し続けており、古き時代の遺物は無限に後退していく時間軸の中に取り残される定めにある……はずだったが、郷愁(ないしは追憶への憧憬)という非合理的な衝動は、(往々にして)故もなく人の感情をしつこいぐらいに丁寧にぐちゃぐちゃにしてくれるから、ぼくは未だにそのトロイメライから完全に抜け出せずにいる。出会う時期が違っていたら、少しだにこんなゲームに興味を持たなかったろうに。それが皮肉なことに、今やこのパッケージに載っている全てが愛おしい。だから、旧KIDのスタッフの方々よ、ぼくに紹介文を書かせてちょうだい。例えば、

 至ってシンプルなそのデザインが醸し出す味わい深い古き時代のテイストは、きっと懐古的趣味を持つ美少女ゲーム愛好家たちの内なるノスタルジーを否応なしに呼び覚ますことだろう(つまり、「古いギャルゲーによくあるパッケージ絵です」。が、そこがいいんですよ、御客さん)。

 ……なんか、すみません。

 

平易さと難解さを兼ねるメルヘン群像劇

 本作は主人公の視点を通して、おとぎ話の世界であるフェルネラントの住民の一人一人にスポットを当て、それぞれが抱えた奇妙な葛藤を解剖していく群像劇である。個々のエピソードが象徴的で面白く、「死」・「自己」・「孤独」・「絶望」といった難解なテーマを掘り下げながら、物語の全体像は心の闇に呑まれそうになったヒロインを主人公が助けるという大変わかりやすい構図となっており、個々のエピソードに用いられるメタファー表現を理解できずとも直観的に楽しめる、そんなある意味万人受けする作品だと言えよう。それでいて、子供でも楽しめるお伽噺の体裁でありながら、シナリオライターのお二方の文学的素養が垣間見える小ネタも散見され、寓話よろしく教訓的なエピソードが随所に散りばめられている。分かりやすく例えるならば、宮沢賢治の言う「心象スケッチ」をゲームという体裁に落とし込んだ作品である。

 

萌えと非萌えの予定調和

 実は『夏夢夜話 設定解説ファンブック』(良かったら買ってね)にも載っている情報なのでご存じの方もいらっしゃるかもしれないが、実は水無神氏はどうやら「小娘系キャラが苦手」のようで、萌えキャラの描写を田中氏に「押し付けた」らしい。そのためか、涼子編と小鳥編とでは登場キャラクターに見られる傾向性はわりかし明確に異なっており、概ね萌えの小鳥編とアンチ萌えの涼子篇に分かれているのではないかと考えられる(あくまで個人的な感想なので個人差アリ)。シルフィードのような例外も存在こそするものの、涼子篇に登場するキャラクターの大半はいわゆる萌え要素の型にハマらない類である。対して小鳥編に関しては、アリス、レミ、シャルをはじめとするメインキャラクターは言わずもがな、脇役までこういうの好きだろ?と言わんばかりに一般的な感性を持つオタクのフェチを刺激してくる。一見してこの両者は相容れない最悪な組み合わせだが、「現実」と「幻想」の境目であるフェルネラントにおいて、このような禁忌のコンボでさえ一種の予定調和のように見えるのは、お洒落ポイントが高い。

 

理解を要しない美的感動ーー「全体」にして「一」なるモダンアート的追体験

 ノベルゲーマーなら皆経験したのであろうことだが、面白いと感じたゲームを数ヶ月ぶりに振り返ったときに、特定のシーンーークライマックスの盛り上がりだったり、主人公の葛藤に共感する瞬間だったり、鳥肌が立つような逆転あるいは伏線回収だったりーーがやたらと鮮明に蘇って、屡々ゲームそのものへの印象をさえ上書きしてしまう。それが意図的な箇所にせよそうでない箇所にせよ、ゲームの作り手の術中にハマってしまったわけで、ユーザーとしてはこの上ない幸せを味わっているに違いない。

 しかし本作『夏夢夜話』からは、このような明確な「盛り上がる何か」を前面に押し出している気配があまり感じられない。むろん物語に起承転結がある以上、「転」と「結」はある種の山場であることは否定しがたいが、本作はそれを目的としたゲーム作りをしていないと感じる。どちらかと言えば、心の歪みの象徴としてのメルヘンランド「フェルネラント」そのものを描き切った一作だと言えよう(それこそ先ほど少し触れていた「心象スケッチ」という言葉がふさわしいであろう)。その魅力はナイポール氏の『ミゲル・ストリート』に通じるところがあるように思われる。奇跡の大陸フェルネラント、部外者からすると何の苦痛もなく幸せに暮らしているように見える大陸の住民たち。そんな幸せの仮象のもとで一生懸命に生きている彼らのふとした気づきで生じた底なしの絶望を、我々読み手は傍観者として主人公と共に覗くことになる。しかし、あくまで冷静に、どこまでも他人行儀で、彼らの少し切ない願いに僅かばかり耳を傾ける振りをする。どこか歪んでいて、なのに心臓を今にも吐き出してしまいそうなぐらい純粋でまっすぐな思いの中に少しずつ取り込まれて、愛おしいほどダメな(もちろん素敵な部分もあるけれど)彼らを好きになっていく。

 そしてとうとう最後に我々読み手だけが取り残され、呆然とフェルネラントの世界に立ち尽くすだろう。一体何がそこまで自分を惹きつけているかがわからないまま、一気に最後まで読んでしまうだろう。急いで振り返ると、でたらめな話ばかりで、どうも現実味がなく、三流の手品師に騙された気分になるが、少し時間を置いてから振り返ってみたら、今度は一つ一つのエピソードが何故か少しずつ浮き彫りになってきて、現実味を帯びてくるーーそんなゲーム体験ができる作品だと思う。つまるところ、「世界観」と「雰囲気」を売りにしているのに、その「世界観」や「雰囲気」への理解を一切要しない抽象的な美しさを持つ作品である。最後まで読んでも、何の話?ってなるかもしれない。だけど、確実にそこまでに至るゲーム体験の中に、自分の心に響く何かがあったと思える(個人差はあるかもしれないが)。ある意味モダンアート的な美意識を求める実験作で、「商業ゲームにそんな体験いる?」と疑問に思われる方もいらっしゃると思うが、少なくともこの神秘的な快感は本物だと約束しよう。

 

フェルネラントへの案内

①PS2:これがないと始まらない。中古品なら数千円程度で入手可能。

②『夏夢夜話』ソフト本体:これがないと始まらない。中古品なら数百円程度で入手可能。

③PS2用メモリーカード:中古PS2を購入すると付いてくることがある。ない場合はヤフオクや駿河屋とかで漁ってみるといいかも。安いやつは500円前後で入手可能。

④PS2専用HDMI接続コネクター:テレビで遊ぶなら必要ないが、モニターにつないで遊びたい場合は必須。2000円前後。

 諸々足すとおよそ新作一本の値段とそれなりの出費だが、それだけの価値があるのでぜひ検討してみてください。ではでは。