(注:未完結)
他の誰でもない、この世のどこかに存在し得た「俺たち」に捧げる愛と狂気の物語。
登場人物
神田 啓(かんだ はじめ)
主人公。K大文学部科学哲学科学史専修3回生。K大演劇部部長兼脚本ライターで、古典文芸に造詣が深い故に意識が高いとよく皮肉られるが、本人が言うには「あくまでエンタメ志向の書き手なのでとても困っている」だそうだ。しかしエンタメ志向という言葉に病的な執着を見せつつも、エンタメ向けと評されるような作品を一作も書き上げられていない。後輩の面倒見がよく、部員から厚い信頼を寄せられているなどとしっかり者の一面もあるが、しょっちゅう調子に乗って恩着せがましい発言をしでかしてしまうのと思い込みが頗る激しい性格の持ち主なので、嫌われているのではないかと心労のあまりに精神を病んでしまい、ひどい人間不信に陥っている。昔の幼馴染から「けいちゃん」と呼ばれていたことは周知の事実だが、本人はどうやらその呼び名が非常に気にくわないようで弄りは厳禁。
佐々木 裕美(ささき ゆみ)
啓の同期兼K大演劇部部員で、文学部美学美術史専修3回生。素で178センチと、ヒールを履いていれば並みの男性ではまず届かない高身長。分析美学を専攻する身でありながら美的実践の能力にも長けるクールビューティーと掛け持ちの美術部で度々話題になるが、「人の外見と内面の間にある筈もない言葉遊びレベルの関連性を無理矢理に見出して、良い風に装って気持ち悪い二つ名をつけないでほしい」と非常に的確でなおかつ辛辣なコメントを残しているなど、無自覚に刺々しい口調での発言が多いため敬遠されている。「エンタメ」に病的な執着を見せた啓にドン引きする一方、啓の熱意と才能に可能性を感じている。「意識高い系(啓)」のジョークを真に受ける啓に呆れつつも、「エンタメ志向なら気にしなくていいのでは」と親切のつもりでアドバイスするが、どうもこき下ろしているように思われたか、ひどく嫌われているみたい(幸か不幸か、本人はあくまで無自覚である)。
岩崎 昇治(いわさき しょうじ)
精神病理学の研究者を志すK大統合人間学部(通称「統人」)1回生。啓の後輩でK大演劇部部員。脚本ライター志望だが、全くの未経験で一向に相手にされない中、啓にやる気を買われて入部。裕美に「異性としての本能的な好感」を自覚症状として抱いているが、自ら積極的にアプローチするほど能動的な人間ではないので、片思いのままで良いと自分に言い聞かせてきた。チャンスを恵んでくれた啓に感謝する一方、啓と裕美の間に漂う何とも言えない微妙にラブコメ臭のする距離感に勝手に嫉妬心を燃やして、ひそかにライバル視している。いわゆる文学青年という類でもなければ、啓が言う「エンタメ」なるものにことさら興味を示しているわけでもなく、ただ衝動的に何かを書きたいだけらしい。その姿勢は「きわめて健全で、素晴らしい」と啓に高く評価されている。一方、啓の自称「エンタメ志向」のスタンスについて、意識の高い人間だと思われたくないあまり、自分がやろうとしているのはあくまで大衆受けする「エンタメ」だと言い張っているだけなのではないかと、非常に冷静な分析を見せている。
本文
〇K大時計台前(夜)
ナレーション
十一月祭が訪れようとするK大では、一日はとても早い。碌々と無為な日々を送る者は一人だにいない。そこらへんに寝転がっている連中でさえ、夢の中では豊かな生を営んでいる。ほら、この日も、自主練に励む二人の青年が夜遅くまでキャンパスライフを堪能している。時計の針が九時を指すところ、静かすぎる辺りを眠りから起こすはアスファルトに響く足音、クスノキの下を部活帰りの二人が通りかかる。
啓 先日出してもらった脚本、とりあえず一通り読み終わったよ。よくもまぁ、あんなクソ野郎を主人公にしてくれた。さては以前勧めたメリメの短編集はきっちり読んでくれたんだろうね。ここまで影響を受けるとは、君はとんだ物好きだね。
昇治 それを先輩が言うのですか。未経験の素人にいきなりアレを読ませるのは、とことんまで人格が歪んでしまうのではありませんか。
啓 それだけ強烈な幻覚をメリメが魅せてくれるのよ。フィクションというものには嘘が常にちりばめてあるが、それが現実から目を背けるためのものでなければ、嘘が嘘でも真実とは表裏一体なのさ。それを読まずに生きるのは苦労も知らずに表向きの幸せばかり噛みしめるお坊ちゃまのようなもん、生きることに対する冒涜だ。
昇治 流石です。いきなりすごい先輩らしい持論ですね。
啓 持論、ね。そうかもしれない。でも僕は誰かに自分の信念を押し付けたりはしないよ。僕はただ主張したい、叫びたいんだ。壁に向かって咆哮したところで、ただの騒音でしかないんじゃないか。だから、君がいてくれて本当に助かったよ。
昇治 それはどうもです。私は先輩の壁です。
啓 まあそれはとして、確かにとんでもない話を書いてくれたけど、まだまだ完成品には程遠いんだ。
昇治 と言いますと?
啓 昇治。君、失恋したことがあるのか?
昇治 うーん。あるとも、ないとも……
啓 らしくもない曖昧な回答だね。それはつまりーーああ、まあいや、この話に深入りするのはやめておこう。君が書いたイカれた野郎の失恋話は、どっかにありそうな、まっぴら御免のきな臭い真実で埋め尽くされているんだ。それも結構なクオリティー。しかし、趣味でつけてる日記程度ならともかく、本物のエンタメとしてはせいぜい三流。幕が閉じれば感情の振り子までぴったり止まってしまう、そんな高級おもちゃもどきの機械仕掛けの世界じゃあ物足りないんだ。狂気を描くなら、もっとあからさまな、真っ赤な嘘を描きたまえ。理解が追い付かないのに、納得行かないのに、頭から払いのけない恋のような存在に仕上げたまえ。君の主人公は最初から最後まで狂気と謳うに行動原理が分かりやす過ぎたんだ。狂人なんかじゃない。強いていうなら、行き過ぎた自己憐憫に溺れた哀れなバカだ。君は誰かの真似をしようとして迷走している。書き手として、己のアイデンティティだけは本来ならば死守せねばならぬ最後の砦なのに。
昇治 あはは、先輩は本当に容赦ないですね……
啓 まぁ僕はあくまで物語には真剣だからね。でもそう落ち込むなよ、そのリアリティの高さは本当に誉めに値するんだ。とりあえず、メリメの野郎は一旦忘れよう。君の中にはじめじめした熱い炎が滾っている。どこまでも冷徹でシニカルなあいつとは到底ウマが合わないんだ。自分のやろうとしていることを今一度見直すと良かろう。ただ、今年の十一月祭は諦めること。どうせ、今から書き直したって間に合わないから。
昇治 はい、精進します。では今年は一観客として学ばせてーー
啓 待って、早とちりは感心しないな。実は、僕の脚本にはあと役者が一人欲しいんだ。君さえよければやってみたらどうだい?
昇治 役者、ですか……?
啓 そう、役者。一度舞台に立ってみないと見えない景色だってある。脚本家志望の君にとってきっといい経験にはなると思う。
昇治 そういえば、先輩はいつも自ら主演を務めると聞きました。そんな理由があったのですね。
啓 僕の場合は別にそんな深い理由じゃないんだけどね。部長の権威を笠に着て好き勝手にやらせてもらってるだけ。気晴らしのようなもんだよ。
昇治 はぁ、それもまた達者の領域なのでしょうか。私にはまだ遠すぎます。ちなみに、どんな役ですか?
啓 『マイ・クレイジー・フラタニティ』の脚本、もう読んでくれた?
昇治 先月完成した新作ですね。読みました。
啓 ならば話が早いんだ。君にはフィナーレで主人公に死んだ侯爵の心臓を豚のものと偽って巧みに売り捌いた饒舌な悪徳商人を演じてもらおう。
昇治 なるほど……えっと、それって割と重要な役だったりしません?
啓 だからこそ、だ。向上心を持て余す舞台が不慣れなひよこに、登場シーンが僅かながらも物語のクライマックスを大きく狂わす要の役が最適だ。君にとっちゃ、もってこいのビッグチャンスじゃないか。スポットライト!歓声!熱い視線!全ては君だけに捧ぐ!それこそ、役者が誰もが求める最高の瞬間ではないか。
昇治 いや、確かに仰る通りですが……
啓 嫌か?すまない。君が嫌だというのなら、無理強いはしないよ。
昇治 とんでもないです。ただ、私のような右も左も分からない素人なんかより幾らでも適正な人選がいるのではないかと……
啓 ふむ、謙虚だね。そういうのは結構だよ。世が世なら謙虚は美徳だけど、残念ながらこの時代じゃぁ卑怯者の免罪符も同然だ。君もまさか謙虚なフリをして人をこき下ろすような輩ではかなろうね。まあ、そんなことはないと思うがーーとにかく、僕は謙虚な人が大っ嫌いだ。いや、君のような可愛い後輩はとても好きだけれど。
昇治 ……というよりは、恐れ多いのです。
啓 恐れ多い!それはいいことだ。昇治、君はとても思慮深い人間であることは知っているんだ。でも、たまには後先考えずに売られた恩を素直に買ったらどうだい。世の中は実に罠だらけだが、せめて僕が指名するからにはもう少し信用してほしいところだ。ちゃんと最後までサポートするから。
昇治 うーん、参りました……先輩がそこまで言うなら、私もいよいよ断る理由が無くなりましたね。
啓 なに、感謝するのは結構だ。後輩を可愛がるのが先輩の使命だから、これぐらい用意周到でなくちゃ。
昇治 あははっ、そうですね……どこまで出来るか分かりませんが、精一杯頑張ってみます。
啓 よろしい。僕たちの間柄だからそう畏まるな。とりあえず、早速だが、明日の練習には来てもらおうか。午後三時集合、場所はいつもの部室だ。
昇治 分かりました。では明日の午後三時にお邪魔します。
啓 ゆとりなど人生には不要。生き急がなきゃ死んでいるも同然。まあ新しい脚本が出来上がったらいつでも持ってくるといいさ。僕は君の頼れる仲間。ではではこれで、明日は楽しみだ。
ナレーション
さらばと啓が手を振りながら軽快な足取りで去っていく。昇治も逆方向へと踏み出す。二人の帰り道はそれぞれ、定めしこれから歩む道もめいめい違うだろうと知る。人気のなくなった時計台前に、ただ澄み切った秋の月光が静寂に降り注ぐ。今宵もクスノキは意気揚々とした青年たちを暖かく見守る。なんと平和で、なんと素晴らしい、なんと物語の幕開きに宜しい一日!
//暗転→明転
◯K大演劇部・部室
ナレーション
放任主義と名高いK大でも、例の演劇部ほど残念な団体はそうそう見つからない。元はと言えば、これも演劇が持つ奇天烈な性格ゆえである。大袈裟な振る舞い、ねっとりした喋り方、気取った声の抑揚、いかにも不気味の三乗といったところをいかにして美化するか問われるは舞台と表裏に踊る者共の手練手管、並の精神力の者が軽い気持ちで制御できるものではない。にもかかわらずとりわけ数奇を凝らした趣味の持ち主でもなければ想像力の常識逸脱もきたしておらぬ、ごく平均的な感受性に甘んじている部員が多数在籍するK大演劇部の実力が果たして如何程のものかについて、ことさら言う必要はなかろう。
ただし一人の男を除いては、だ。神田啓という男は、それはそれは上手に狂っている。物語の不合理性が生み出す「衝撃」なるものに対する異常なほどの執着が、彼の過剰な表現欲に潜んだ歪な才能を余計に開花させてしまったのだ。くれぐれも勘違いしないで頂きたいが、舞台にさえ上がらなければ、神田啓は至って常識的な好青年である。この間T京で買い物した時に一枚だけ多く受け渡された一円の釣り銭を、わざわざK都から往復に数時間をかけて遥々返しに行ったとか、とにかく日ごろからこよなく清廉潔白を愛してやまぬ、己が信ずる正しさの貫徹に腐心している、類稀な好青年である。本人曰く、「K都に戻ったら、一円玉が余分に増えていたことに気付いたんだ。最初は何とも思わなかったが、考えれば考えるほど、僕が不誠実を働いたとされてしまうのではないかと気が狂い始めて、いよいよ返しに行かなければならないというところまで精神が追い詰められていた。寝ても、起きても、その一円玉が脳裏から離れてくれなくって、馬鹿馬鹿しいと分かっていても、時間が経てば経つほど、自分が本当に不誠実を働いたとしか思えなくなり、ついに四日連続の徹夜を経て病院送りされうしんどい経験をしたんだよ。だから、僕はこれを教訓にして、次からは必ず釣り銭を財布に仕舞う前に一円玉の数を気が済むまで完璧に数えると決めた」だそうだ。しかし、そんな好青年の神田啓でも、なぜか舞台に立った途端、まるで別人にでもなったかのように、体中の穴という穴から身の毛がよだつ奇行中毒者の腐臭がする。もっとも、そのことについて聞かれるといつも「そういう役だから仕方ない」と彼は決まって責任逃れの態度で屁理屈な言い訳をばかり並べるのだが……
啓 佐々木、
裕美
(続く)