夜な夜な黒魔術屋

感想・エッセイ・小説

『怨念石』

 私が地質学のフィールド調査でベトナム南部にあるダクノン省のとある村を訪れたのは、ちょうど怨念石と呼ばれる石を崇め奉る毎年恒例の儀式が行われようとしている頃だった。言い伝えによると、あれはベトナム戦争中にアメリカ兵に殺された妊婦の血に染まった呪いの石だった。身を寄せた村長の家で儀式の準備に関する話を偶然聞きつけたので、もとよりこういった民俗に興味がある身としてぜひ拝見したいと面白半分で申し出たところで、意外にもあっさりと同列を許された。思わぬ収穫に大喜びした私は、急いでホーチミン市への出発を一週間後ろ倒しにするなどと大幅にスケジュールの調整を行い、調査および書類作成の日課をこなしつつ、首を長くして来たるべき日を待っていた。

 迎えた儀式の当日、私は村長の指示に従い早々と支度の準備を済ませて、村人の隊列のあとについていった。山の奥をめがけてジグザグの坂道を数百メートルばかり歩き、左手方向の段差に隠れた巨木の裏にある家の廃墟が見えるや否や、儀式の隊列が足を止めた。どれどれと、背伸びして怨念石をこの目で確かめようと試みた。しかし、どこにもそれらしい石が見当たらなかった。

 困惑している私をよそに、村人たちはただ粛々と儀式を進めるのみだった。お世辞にも経済状況が思わしいとは言えない辺鄙な里山の村だが、たいそう豪華な供物が捧げられていた。村人たちが裸足になってその場で跪き、巨木なのか家の廃墟なのかはっきりと分からない方向に向かって小声で祈りを捧げるのだった。小一時間かかる儀式のほとんどはこの光景の連続だった。何一つ解釈が行われずに、私はただ呆然とこの苦行のような祈祷を眺め続けていた。とても、説明を求められそうな雰囲気ではなかった。

 儀式が終わったあとの帰り道でも、やはり誰一人として口を開けようとしなかった。たった数百メートルの沈黙に私は耐え切れず、少し躊躇いながらもタイミングを窺って干からびた声で問いかけてみた。

 「結局、あの廃墟は何なんだ」

 すると、村人たちは皆神妙な顔でこっちを睨みんできた。

 「さぁ……そこらへんに怨念石があるとしか聞かされていないさ。殺された妊婦の家だったんじゃないんすかね」

 息絶えてしまいそうな数秒の時間が流れて、ようやく群れの中からある男が喋り出した。しかし、それもただの一言しかなく、他の村人たちに至っては頭を縦に振るのみだった。長い年月に渡って鬼神を崇め奉るが如く丁重に扱われてきた怨念石を、どうやら村人たちは自分の目で確かめた試しがないようだった。にわかに信じがたいが、素朴な人ばかりで嘘をついているとも思えないし、かといってこれ以上会話が続きそうにもないので、私は不思議に思いながらも仕方ないと半ば諦めかけていた。

 その日の夕食はいつもより品目が多かった。村での下宿生活の最終日でもあって、私は一旦怨念石のことを頭から払いのけて、酒を啜りながら村長との語り合いに耽っていた。早朝の出発に支障が出ない程度のつもりだったが、先日山奥で採取したボーキサイト標本のことを自慢げに話したところで村長が興味津々に乗ってくれたので、思いっきりテンションが上がって酔っぱらってしまい、作業着をまとったままベッドに横たわって眠りについた。

 再び目が覚めた頃に、窓の外はギリギリまぶたがすっと開かない明るさだった。やれやれ、久しぶりに早起きしたものだと思い、上半身を起こそうと試みたが、一向に動く気配がなかった。まるで霊にでも取り憑かれたかのように、胸が引き締まるような苦しみに襲われ、不本意ながら小刻みに体が震えていた。心の中でいくら助けを求めようにも、声にならない叫びでしかなかった。

 「おい、そこのマダム。何こそこそしてんだ……って、どうしたんだ、苦しそうに。大丈夫か?」

 と、突然聞こえたのは、全く聞き覚えのない若い男の声だった。

 --誰?

 身動きすら取れないが、私は本能的に声の主に敵意を向けた。

 「クソが……ベトナム語わかんねぇよ。英語喋れるんかい?」

 ーー英語……?!

 さっきからの違和感の正体がようやく明らかになった。外国語の勉強はおろか、学校という概念の存在すら疑われるこのちっちゃな村で、この声はなぜか英語で話しかけてくるのだった。

 「まったく、英語が通じないようじゃ困っちゃうな」

 人の形をした「何か」が、声とともにこっちに近寄ってきたみたいだった。しかし、その「何か」は決してくっきりとした輪郭を持っておらず、まるで曙の光から逃げ出した夜に溶け込んだ暗闇の一部、いわば影のような存在だった。

 「まぁいいや、よく聞け。このでけぇ木をよく見ろ。ここより先は米軍の拠点だぞ。何がしたいかさっぱり分からんけど、キミのようなベトナム人はすぐに立ち去った方が身のためだぞ。つーか、俺の当番じゃなかったらとっくに頭に穴ができてたぜ。わかったらさっさと失せろ。女には手を出したくねぇよ」

 そう言い放って、影なる存在は如何にもすぐ近くに木があるかのように、右手と思しき一部分の輪郭を変え、指差しするような形を作り出した。

 「十秒だけ時間くれてやる。マダムよ、俺を困らせんなよ」

 こうして私は銃口を向けられたのだった。しかし、私はベトナム人ではなければ女性でもないので、目の前に何が起きているかを知る術もなく、ただ名もなき影に撃ち殺される恐怖に慄きながら、一方的に裁かれるのを待つしかなかった。

 「10……9……8……7……」

 無情にもカウントダウンが始まった。誤解だと何度も叫ぼうとしたが、ことごとく無駄に終わるだけーー嗚呼、私は呪われたのだった。身に覚えのない罪に問われた自身の弁護さえ許されない残酷で不条理な呪いだった。

 「3……2……1……」

 と、死を覚悟したその時、影なる存在はなぜか銃を下ろしたのだった。

 「マダム、どうしたんだい?おい、マダム!しっかりしろーー」

 それはとても無機質な存在とは思えないほど、暖かで血の通った叫び声だった。あまりにも早いこの状況の変化に理解が追いつく前に、次の瞬間、銃声が鳴った。まるで条件反射のように、とっさに私の体が飛び起きた。ちょうど時計の針が朝五時を指すところだった。影のような男も銃も見当たらなかったが、床には滴る血が凝固したが如き赤褐色のボーキサイトの標本が落ちていた。深呼吸を十数回ほど繰り返すと、ようやく冷や汗で背中を濡らしたことに気が付いた。辺りはいつもの朝のように静かで、村長はまだ起きていないようだった。それから朝食までの長い間、私は何度もあの神秘的な体験を記憶の中で再現してみた。

 「そういえば、妊婦を殺したアメリカ兵はどうなったんだ」

 「さぁ、わしもその場にいなかったから詳しくは知らんけど、駆け付けた村の人に撃たれて死んだって聞いたねぇ。おかげさまで、ずいぶん荒れていたようだったのう」

 「へぇ……」

 最後の朝食を、こんなやりとりを交わしながら食べていた。

 村を離れる前に、私は一度山奥の方に足を運ぶことにした。採取したボーキサイトの標本を元の場所に戻した後、巨木の前に跪いて祈りを捧げた。