夜な夜な黒魔術屋

貪欲、満ち足りぬ

『サルテ』感想

 良く出来たストーリーに蛇足の手品を詰め込んだ、「トリック」と「ファンタジー」要素を見せびらかす小品文、というのが大まかな印象だろうか。言い方が少しきついかもしれないが、決して貶めているわけではない。ある人物の一生を「劇」として振り返る形で物語を進行させるのは小説によく見られる手法だが、エロゲにしてはやや珍しい。悲劇的な笑いを誘ういわゆる不条理劇という現代的なジャンルを扱いながらも概ね古典演劇を意識した構成になっており、粗こそあれど「劇」としては大変見どころのある出来具合ではないだろうか。以下はネタバレ前提の長文感想。

 

チャップリンの引用で早々本題に突入するも訳語が少し気になる

 冒頭ではチャップリンの言葉を引用することで作品の主調をあらかじめ定め、素早く本題へと突入する。単純明快な手法でやや乱暴に感じるかもしれないがすんなりと劇の世界に没入できるので好感が持てる。ただ一つ指摘しておきたいというか、取り上げたいのはclose-upとlong-shotの訳。直訳すれば「近くで(見る)」・「距離を置いて(見る)」になるが、『サルテ』では「主観的」・「客観的」という訳になっている。誤訳ではないが、都合のいいように解釈しているように見えなくもない。近くで見るからといって主観的とは限らないし、どちらかというと感情的と言うべきだろうか。距離を置いて見る方は確かに客観的といえば客観的だが。まあそもそも『サルテ』の文脈では「近くで見ること」と「主観的に見ること」とがさほど違わないのでそこまで気にすることはないかもしれないが(なぜならこの言葉は主演であるサルテの自分自身に対する戒めだから)、直訳のほうがより適切でわかりやすいのではと思う自分がいる。

 

劇中劇という「邪道」と三一致をちらつかせる「王道」の共存

 劇中劇の手法が使われていることは言うまでもなく明白である。私はここで劇中劇を「邪道」と呼ぶが、邪道≠悪手とだけは予め言っておこう。あくまでトリッキーな手法ぐらいの意味として捉えてください。その割に、物語の中身はかなり古典演劇の王道を意識しているように見える。そもそも小国分立に王女といった背景設定自体は古典的な題材を扱うぞという意志表示だし、チャップリンの言葉を劇でもって再現したいだけならわざわざ中世的な背景を設ける必要はない。そのうえ生と死の間という舞台は「場所の一致」、窓の外が見えないという仕掛けは「時間の一致」、劇を演じることを繰り返すことで自分の本当の死に方にたどり着くという目的が「行動の一致」をそれぞれ保証している(これらは合わせて「三一致」と呼ばれるフランス古典演劇の王道法則)。「生と死の間」の一箇所にサルテを固定することで、劇中劇がどんな内容だろうと舞台は変わらない。窓に仕掛けを施すことによって、昼夜や時間の流れを意識させない。余計なシーンに時間を費やすことなく最初から最後まで死に方を探す目標に徹するのも演劇としての王道であり好印象が持てる。三一致の法則は言っちゃえば古臭い旧時代の遺物にすぎないし、縛りがきついことからかなり前から守られなくなったが、劇の本質を突いている側面もあって依然としてある程度三つの一致を意識するのが劇作の王道であることに変わりはない。当然、『サルテ』も完璧に三一致の法則に沿って作られたわけではないが(例えば時間の一致はかなり曖昧で、そもそも生と死の間に時間の流れが存在するかすら怪しい)、所々この三一致をちらつかせているのではないかと思わせる要素があって読んでいてとても楽しい。

 

悲劇と喜劇の「紙一重性」を脚本設定レベルにて再現しようとする「メタ劇」は実に良き試みだが安直な技法が玉に瑕

 『サルテ』には(古典的)悲劇の要素も喜劇の要素もたくさん見受けられる。これらの要素が紙一重であることは物語のテーマだけではなく、人物や背景などの設定を巧みにいじることで脚本レベルにおいてもその性格が強調されているように思われる。まずは『サルテ』の(古典的)悲劇/喜劇要素を見ていこう。

※悲劇要素

  • 主人公は上流階級の出身であること(少なくとも種明かし直前までは)
  • 主人公のあやまちにより幸福から不幸へと転落すること(大臣を信用する)
  • 主人公の性格が優れていること(少なくとも種明かし直前までは)
  • 主人公の死に親しい人が絡むという意外なあわれみを引き起こす手法(ジャンに殺られる)
  • 「三一致」(アリストテリスの『詩学』にはこの三一致の根拠と思わしき内容があるが「悲劇」に限定している、なぜなら突発の事件により一日も経たないうちに幸から不幸へと転落することが最もあわれみを引き起こすと思われるから)
  • etc.

※喜劇要素

  • 主人公は下層階級の出身であること(一般人で姫君の身代わり)
  • 主人公の性格が優れていないこと(悪いとまでは言わないが単純に良い奴でもない)
  • 主人公の醜い姿を見ても嫌悪感を覚えないこと(喜劇は苦痛を与えない醜さの再現)
  • 主人公の不幸は衝撃的なものではないこと(トリックには驚くもののさほど衝撃的な死に方ではない)
  • etc.

 (古典的)悲劇は上流社会の性格の優れている人間の行為を再現する。対して喜劇は下流社会の性格の劣っている人間の行為を再現する。種明かし直前までの物語、すなわち、囚われし姫君が我が身を顧みずに、散々敵兵に陵辱されるも国のために尽くす一心で耐えに耐えてようやく隙を見て逃げ出したというのに、「裏切り者」と勘違いされ恋人に殺られる、という流れは正にお手本のような古典的悲劇の展開と言ってもいい。しかしそれが記憶を取り戻すことによって人物や背景設定が丸々ひっくり返されることになるーーサルテは高貴な出身でもなければ優れた人徳の持ち主でもない、更にかのジャンに関して言えば白馬の王子様もなにもただの優柔不断な二股男。こういった「認知の逆転」(悲劇の筋立ての手法)は一方ではさらに物語の悲劇性を増すが、他方では設定レベルにおいて物語の滑稽さを語る。このような悲劇的な滑稽さを再現する劇として『ゴドーを待ちながら』を始めとする現代の「不条理劇」が有名だが、『サルテ』も言っちゃえば同じ類の作品だと私は思う。そもそも「不条理劇」の中核をなすのはまさしく『サルテ』のテーマでもある「悲劇と喜劇の抱き合わせ」であるから。そういう意味では「設定一ついじるだけで悲劇は喜劇になる」ことを示唆しているだろう『サルテ』は劇のあり方を表現するメタ劇という見方もある。

  ただ、上述の認知の逆転を生じさせるために道化クルーンという「サルテの物語」においてあまり役に立たない人物を無理矢理に登場させ、さらに特に理由もなくサルテの記憶を改ざん(剥奪)するという叙述トリックの中でもかなり不評な技法を使うのはやや殺風景。

 ちなみに17世紀のフランスにおいて「悲喜劇」というジャンルが存在していた。「悲喜劇」の特徴として喜劇と悲劇の要素がごちゃごちゃになって、途中までが悲劇のように見えるが最後は喜劇的な終わり方で幕を閉じることが多いジャンルだった。なぜ悲喜劇の話をするかというと、『サルテ』はとある悲喜劇に非常に似ているからである。『舞台は夢』というタイトルの、初期コルネイユの作品だ。舞台劇の俳優に憧れる息子の失踪で絶望した父親に、魔術師は魔術を使って息子の失踪後の様子を実際に劇として上演して見せるという。その劇を至近距離で観た父親は、出世した息子が不倫のトラブルに巻き込まれて殺されたことを嘆き悲しむが、その劇を演じたのは息子本人であることに気が付かなかった。そして幕が下り、息子が前に出てきて種明かしをすると、父親はようやく舞台劇の魅力に気づいた。『サルテ』に比べて、上演される「劇」の中身こそ異なるものの(当然といえば当然だが)、魔術師と道化クルーンの存在、劇中劇の使用、自分自身の役を演じること、悲劇と見せかけての喜劇、メタ劇であること、劇の魅力を伝える目的であることにおいて両者の相似点が見えるだろう。『サルテ』と同様に、『舞台は夢』も最後の種明かしまで観客を騙すスタイルなので、言っちゃえば叙述トリックだが、劇中の父親を騙すことで今までネガティブな態度を取ってきた彼に舞台劇の魅力を認めさせるという「物語の役に立つ」トリックと言える。また同じ理由で魔術師も道化クルーンと違って劇においてはちゃんとした役割を持つ(対してクルーンはサルテの物語の進行役でもなければ、滑稽さの表現の役に立っているわけでもない、正真正銘にトリックだけのために生まれたキャラクター)。これらの点においてはやはり『舞台は夢』の方が色々しっくりくる。

 

トリックのために犠牲が多く割に合わない

 クリア後にもう一度読み返すと、トリックのために施された飾り(伏線)のどれもギリギリ解釈できる範囲に収まっているが、とてもではないけど納得の行くものとは言い難い。いや本当に伏線あるあるだけど。例えばガルニエとの会話は都合よくサルテが王女の分身であることがバレないまま進んでいたが、実際にあの二人がああいう会話をするのかと言われると正直怪しい。また、トリック使わずにはじめから読み手にサルテが本物の王女でないことを提示すればサルテの的外れな行動や発言の滑稽さも増すだろうに、そうしなかったのはトリックのためだって考えると尚更代償が大きいと感じる。一読者として、トリックを活かすために合理性も滑稽さも犠牲にしてしまうくらいならこんな本末転倒なことしなくても良かったと思う。

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全く関係ないけどガルニエまじでおもしれええ

 

登場人物の本来の性格はなんとなく察していたが描写が浅い

 サルテがジャンを好きになった理由まるでわからない。優柔不断だし体関係を口実に使って口封じしようとしてくるしあのサルテならとっくに幻滅してたやろ…とツッコミながら読んでいた。ジャンが優柔不断で二股していることはなんとなく察知していたが、トリックを隠し通すためかはっきりした描写が少ない。せめて種明かし後にジャンとサルテの間の何かしらのエピソードを補足やおまけとしても構わないが添えてほしかった。ジャンに限らず、劇中では詳しく描写してないのに最後に「実はあいつって裏ではこういう性格なんだ」とヒロインに語らせる形で雑に片付けられたのが個人的に受け付けないかなりの悪手。

 

まとめ

 素晴らしい物語を上手く魅せようとちょっとずるい手法に頼ってしまった、楽しかったけど素直にべた褒めできない「傑作一歩手前」の作品。生と死の間という世界観設定や叙述トリックといった手品を盛り込もうとしたせいで折角の物語も筋がバラバラで少し読みにくいし、ペルソナ(仮面の正体)もネタとしてやや古くどんでん返しだけのために登場させたとしか思えないなどと、派手だが必要と感じない飾りが多い。とはいえ、物語の構想は群を抜いて大変素晴らしいものなので変に魅せ方さえ工夫しようとしないで普通にサルテのストーリーを語っていたらデビュー作にして相当な大作だったと思う。まあ手品が好きな人も一定数いると思うので、必ずしも私の意見を真に受ける必要はないが。とにかく、次回作にはかなり期待大。

 

評価

・劇の構成(42/50点):

   *物語の筋:9/10点

   *登場人物の性格:8.5/10点 

   *主題:7.5/10点

   *絵:9/10点

   *音楽:8/10点

・劇の魅せ方(33/50点):

   *物語の筋立て:6/10点

   *登場人物の性格描写:5/10点

   *テキスト:6/10点

   *ボイス:9/10

   *演出:7/10

・ボーナス(+7.5点):

   *題材の選択:+2.5点

   *エロシーン:+2.5点

   *今後への期待:+2.5点

・合計:82.5/100点

 

【おまけ】

 アリストテレスは『詩学』において劇を6つの構成要素に分ける。それぞれ「筋」、「(登場人物の)性格」、「語法」、「思想」、「視覚的装飾」、「歌曲」。これらは正にビジュアルノベルの「ストーリー」、「キャラクター」、「テキスト」、「テーマ」、「絵」、「音楽」にそれぞれ対応していると私は思う。つまるところ何を言いたいかというと、ビジュアルノベルは小説よりも演劇の一種と見なすべきかもしれない。まあ言いたかっただけだよ。