夜な夜な黒魔術屋

華やかなことは書けない

『サルテ』感想

 良く出来た古典的な背景設定に華麗なギミックを詰め込んだソワレのデビュー作、『サルテ』。ある人物の一生を「劇」として振り返る形で派手に物語を進行させるという、物語の「形式美」を強く意識している商業作のロープラでは中々見られない大胆な手法が使われた一作である。悲劇的な笑いを誘ういわゆる不条理劇を扱いながらも、古典演劇を強く意識したやや異色的だが面白いストーリー構成となっており、オチも少し強引だがおおむね綺麗にまとまったと言える。

 以下はネタバレありの長文感想。

 

三一致をちらつかせる「王道」を往く

 ゲームをプレイしていると、物語の中身がおおむね古典演劇の王道に則っていることが分かってくる。そもそも中世の王宮という舞台設定そのものは古典的な題材を扱うに極上の調味料であり、そのうえ生と死の間という舞台は「場所の一致」、窓の外が見えないという仕掛けは「時間の一致」、演技を繰り返すことで自分の本当の死因を探るという目的が「行動の一致」をそれぞれ意識しているように思われる(無意識かもしれないけれど)。そのおかげで、『サルテ』も大変精緻な物語に仕上がっており、コンパクトにまとまった古典演劇の雰囲気を纏う。むろん三一致の法則そのものは古典演劇に課される作法のような厳しい制約でしかなく、昨今の作品にとって必須ではないが、そのような古典的志向性をちらつかせる物語構成は間違いなく作品に重厚感を与える効果をもたらしてくれたと言えよう。

 

悲劇と喜劇の「紙一重性」を世界観レベルで表現する「メタ劇」

 『サルテ』には(古典的)悲劇の要素も喜劇の要素もたくさん見受けられる。これらの悲劇と喜劇の要素が紙一重であることは物語のテーマだけではなく、人物や背景などの設定を巧みにいじることで世界観レベルにおいてもその性格が強調されているように思われる。まずは『サルテ』の(古典的)悲劇/喜劇要素を見ていこう。

※悲劇要素

  • 主人公は上流階級の出身であること(少なくとも種明かし直前までは)
  • 主人公のあやまちにより幸福から不幸へと転落すること(大臣を信用する)
  • 主人公の性格が優れていること(少なくとも種明かし直前までは)
  • 主人公の死に親しい人が絡むという意外なあわれみを引き起こす手法(ジャンに殺られる)
  • 「三一致」(アリストテリスの『詩学』にはこの三一致の根拠と思わしき内容があるが「悲劇」に限定している、なぜなら突発的な事件によって一日も経たないうちに幸から不幸へと転落することが最もあわれみを引き起こすと思われるから)
  • etc.

※喜劇要素

  • 主人公は下層階級の出身であること(一般人で姫君の身代わり)
  • 主人公の性格が優れていないこと(悪いとまでは言わないが良い奴でもない)
  • 主人公の醜い姿を見ても嫌悪感を覚えないこと(喜劇は苦痛を与えない醜さの再現)
  • 主人公の不幸が衝撃的なものでないこと(トリックには驚くものの死に方自体はさほど衝撃的ではない)
  • etc.

 (古典的)悲劇は上流社会の性格の優れている人間の行為を再現する。対して喜劇は下流社会の性格の劣っている人間の行為を再現する。種明かし直前までの物語、すなわち、「姫君が囚われる→拷問に屈せず、隙を見計らって脱走に成功→本国で裏切り者呼ばわりされ→国に忠誠を誓った恋人に殺られる」という一連の流れは正にお手本のような古典的悲劇と言っていいだろう。しかし、ヒロインが記憶を取り戻すことによって人物や背景の設定が丸ごとひっくり返されてしまうーーサルテは高貴な出身でもなければ優れた人徳の持ち主でもないし、ジャンも「白馬の王子」などではなく優柔不断な二股男であることが判明。こういった「認知の逆転」は一方では物語の悲劇性を増すが、他方では世界観レベルにおいて物語の滑稽さを物語る。このような悲劇的な滑稽さを再現する劇として『ゴドーを待ちながら』を始めとする現代の「不条理劇」が有名だが、『サルテ』も同じ類の作品であろう。「不条理劇」の中核をなすはまさしく『サルテ』のテーマでもある「悲劇と喜劇の抱き合わせ」だから。そういう意味では「設定一ついじるだけで悲劇が喜劇になる」ことを示唆しているだろう『サルテ』は「劇のあり方を表現するメタ劇」とも言えよう。

 

悲喜劇、叙述トリックーー『舞台は夢』との共通性について

 少し与太話をするとしよう。先ほど場合によって「喜劇」と「悲劇」が紙一重であると説明しているが、その両者の要素を混ぜた演劇は往々にして悲喜劇と呼ばれる(古典演劇では禁忌とされているが)。17世紀のフランスではとある悲喜劇の作品が生まれた。悲劇のように見えるが、喜劇的な終わり方で幕を閉じることが多いこのジャンルの中でも、技法からして少し風変わりな作品となっている。そのタイトルは『舞台は夢』、初期コルネイユの作品だ。なぜここでその話をするかというと、それは『サルテ』と『舞台は夢』のコンセプトは非常に似ているからである。『舞台は夢』のあらすじを簡単に紹介すると(以下ネタバレ)、舞台劇の俳優に憧れる息子の家出に絶望した父親に、魔術師は魔術を使って息子の家出後のいきさつを演じて見せるという。その劇を観た父親は、出世するも不倫トラブルに巻き込まれて命を落とす息子の不運を嘆き悲しむが、その劇を息子本人が演じていることに気付かなかった。そして幕が下り、種明かしが行われると、舞台劇はなんと素晴らしいものだと、めでたしめでたし。

 さて魔術師と道化クルーンの存在、劇中劇と叙述トリックの使い方、悲劇に見せかけた喜劇、演劇の礼賛、メタ劇といった点において両者の共通性が見受けられる。劇と現実を混同させることで劇の妙を伝える、というのが共通のコンセプトであり、それを実現するための手法は劇中劇を活かした叙述トリック。そこで、親父役(『サルテ』における親父役は我々読者自身であることは言うまでもないだろう)というか観客役は物語の語り手によって与えられた情報が真だと誤認すると「何たる悲劇だ」と嘆くが、その誤った認識が剥がれ落ちる(古典演劇では「認知の逆転」と言う)と「なんだ」と失笑する。それでいて、笑いを誘う部分までどこか悲劇調を貫いているがゆえに、人によっては手放しに笑えなかったりする。何より言及しなければならないのは、『舞台は夢』の作者であるコルネイユは古典権威に対する挑戦的な姿勢を見せ、かの有名な「ル・シッド論争」を引き起こした張本人であり、同じく古典を意識しながらも古典を拒否する反骨精神が『サルテ』という作品の根底にもある(そして当たり前だが、面白いことに、当時では異端児とされていた『舞台は夢』でも今となっては古典の一部として演劇の歴史に組み込まれている)。

 まあ語り出したらキリがないので一旦ここで止めておくが、言いたいのは要するに、『サルテ』がやろうとしていることは、ライターが意識しているにせよ意識していないせよ、『舞台は夢』の一種の再現だということ。この事実は、作品の出来栄えと受け取る人の感性によって、肯定的な意味とも否定的な意味とも捉えれられる可能性があるが、少なくともここでは単なる「イエス・オー・ノー」の評価ではないとだけ言っていこう。『舞台は夢』に似たような、ないしはそれ以上に「観客」を翻弄した本作『サルテ』の叙述トリック、実に面白く見事な手法だ。しかし同時に、本作にとって本質に近いその見事過ぎた叙述トリックを隠し通すべく物語に対して施される修飾は、皮肉なことに欠陥そのものにもなってしまった。物語を最後まで読むと、腑に落ちたようで落ちないというほんのりとした不気味な不安が自分の中で生じたと感じる。『舞台は夢』で使われた叙述トリックは、厳しい父親に自分のことを認めさせるという物語上の意味があるので、物語は内部で閉じている。対して本作『サルテ』においてヒロインは我々に語りかけているが、残念ながら我々は彼女という人間の物語において何の意味も持たない「異物」でしかない。物語の外から内部への回帰という一工夫が足りなかった。また、『舞台は夢』では、父親が魔術師が見せた幻術の力を信じ込んでしまうという「異常事態」により、叙述トリックの条件が自ずと満たされるが、本作『サルテ』では道化クルーンという狂人役がいても、それによって逆転が生じるべき合理的な理由が見当たらなかった。

 とはいえ、上記の欠陥はさほど致命的なものではなく、作品自体はおおむね筋が通っているので、プレイ体験は決して悪くはなかった。

 

まとめ

 もう一工夫がほしかったと感じる面もあるが、物語の手法とその根底にある古典的志向性は独特で評価に値する。全体的に、ロープラでありながら完成度の高い世界観に思わず引きずり込まれる魅力的な作品だと言える。次回作には期待大。

 

おまけ

 アリストテレスは『詩学』において劇を6つの構成要素に分けている。それぞれ「筋」、「(登場人物の)性格」、「語法」、「思想」、「視覚的装飾」、「歌曲」である。これらは正にゲームの「ストーリー」、「キャラクター」、「テキスト」、「テーマ」、「絵」、「音楽」に対応するのではないかと私は思う。つまるところ何を言いたいかというと、ゲームと演劇には通じるものがあるんだと。

 (当たり前すぎる)