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『サルテ』感想

 良く出来た古典的な物語に華麗な手品を詰め込んだ、「トリック」と「ダークファンタジー」を売りにしたソワレのデビュー作。ある人物の一生を「劇」として振り返る形で物語を進行させるといった、この業界では中々見られない大胆な手法が使われる一作だった。悲劇的な笑いを誘ういわゆる不条理劇という現代的なジャンルを扱いながらも概ね古典演劇を意識した構成になっており、実に見どころが多いと言える。

 以下はネタバレありの長文感想。

 

 

劇中劇という「邪道」と三一致をちらつかせる「王道」の共存

 私はここで劇中劇を「邪道」と呼ぶが、邪道≠悪手ということを予め断っておきたい。あくまでトリッキーな手法ぐらいの意味として捉えてください。その「邪道」の割に、物語の中身はおおむね古典演劇の王道を意識しているところが非常に面白い(もっとも、劇中劇と古典演劇は矛盾しないが)。そもそも小国分立に王女といった背景設定は古典的な題材を扱うに極上の調味料だと言える。そのうえ生と死の間という舞台は「場所の一致」、窓の外が見えないという仕掛けは「時間の一致」、劇を演じることを繰り返すことで自分の本当の死に方にたどり着くという目的が「行動の一致」をそれぞれ保証している(これらは合わせて「三一致」と呼ばれるフランス古典演劇の王道法則)。日常シーンにボリュームを割くことなく最初から最後まで「死に方を探す」という一貫した目標に徹するところも王道的で好印象が持てる。三一致の法則は言っちゃえば古臭い旧時代の遺物にすぎず、縛りがきついことからかなり前から守られなくなったし、『サルテ』も当然完璧に三一致の法則に沿って作られたわけではないが(例えば時間の一致はかなり曖昧で、そもそも生と死の間に時間の流れが存在するかすら怪しい)、所々この三一致の法則をちらつかせているのではないかと思わせる要素があって読んでいてとても楽しい。

 

悲劇と喜劇の「紙一重性」を世界観レベルで表現する「メタ劇」

 『サルテ』には(古典的)悲劇の要素も喜劇の要素もたくさん見受けられる。これらの悲劇と喜劇の要素が紙一重であることは物語のテーマだけではなく、人物や背景などの設定を巧みにいじることで世界観レベルにおいてもその性格が強調されているように思われる。まずは『サルテ』の(古典的)悲劇/喜劇要素を見ていこう。

※悲劇要素

  • 主人公は上流階級の出身であること(少なくとも種明かし直前までは)
  • 主人公のあやまちにより幸福から不幸へと転落すること(大臣を信用する)
  • 主人公の性格が優れていること(少なくとも種明かし直前までは)
  • 主人公の死に親しい人が絡むという意外なあわれみを引き起こす手法(ジャンに殺られる)
  • 「三一致」(アリストテリスの『詩学』にはこの三一致の根拠と思わしき内容があるが「悲劇」に限定している、なぜなら突発的な事件によって一日も経たないうちに幸から不幸へと転落することが最もあわれみを引き起こすと思われるから)
  • etc.

※喜劇要素

  • 主人公は下層階級の出身であること(一般人で姫君の身代わり)
  • 主人公の性格が優れていないこと(悪いとまでは言わないが良い奴でもない)
  • 主人公の醜い姿を見ても嫌悪感を覚えないこと(喜劇は苦痛を与えない醜さの再現)
  • 主人公の不幸が衝撃的なものでないこと(トリックには驚くものの死に方自体はさほど衝撃的ではない)
  • etc.

 (古典的)悲劇は上流社会の性格の優れている人間の行為を再現する。対して喜劇は下流社会の性格の劣っている人間の行為を再現する。種明かし直前までの物語、すなわち、「囚われし姫君が敵兵に蹂躙される→わが国のために臥薪嘗胆→隙を見計らって脱獄に成功する→裏切り者呼ばわりされ恋人に殺られる」という一連の流れは正にお手本のような古典的悲劇の展開と言ってもいいだろう。しかしそれが記憶を取り戻すことによって人物や背景設定がひっくり返されてしまうーーサルテは高貴な出身でもなければ優れた人徳の持ち主でもないし、ジャンも白馬の王子ではなくただの優柔不断な二股男にすぎない。こういった「認知の逆転」は一方ではさらに物語の悲劇性を増すが、他方では世界観レベルにおいて物語の滑稽さを語る。このような悲劇的な滑稽さを再現する劇として『ゴドーを待ちながら』を始めとする現代の「不条理劇」が有名だが、『サルテ』も言っちゃえば同じ類の作品だと私は思う。そもそも「不条理劇」の中核はまさしく『サルテ』のテーマでもある「悲劇と喜劇の抱き合わせ」だから。そういう意味では「設定一ついじるだけで悲劇が喜劇になる」ことを示唆しているだろう『サルテ』は劇のあり方を表現するメタ劇とも言える。

 

評価が分かれる叙述トリックーー悲喜劇『舞台は夢』との比較において

 上で述べている認知の逆転を生じさせるために道化クルーンという「物語の進行」にあまり役立たない人物を登場させ、さらに特に理由もなくサルテの記憶を改ざん(剥奪)するのは個人的にやや玉に瑕かなと思う。

 17世紀のフランスにおいて「悲喜劇」というジャンルが存在していた。「悲喜劇」の特徴として喜劇と悲劇の要素がごちゃごちゃになって、途中までが悲劇のように見えるが最後は喜劇的な終わり方で幕を閉じることが多いジャンルだった。なぜ悲喜劇の話をするかというと、『サルテ』はとある悲喜劇に非常に似ているからである。それは『舞台は夢』というタイトルの、初期コルネイユの作品だ。舞台劇の俳優に憧れる息子の失踪で絶望した父親に、魔術師は魔術を使って息子の失踪後の様子を実際に劇として上演して見せるという。その劇を至近距離で観た父親は、出世した息子が不倫のトラブルに巻き込まれて殺されたことを嘆き悲しむが、その劇を演じたのは息子本人であることに気が付かなかった。そして幕が下り、息子が前に出てきて種明かしをすると、父親はようやく舞台劇の魅力に気づく。

 魔術師と道化クルーンの存在、劇中劇の使用、自分自身を演じること、悲劇に見せかけた喜劇、メタ劇、主人公の目的といった点において両者は非常に似ている。『舞台は夢』も最後の種明かしまで観客を騙すスタイルなので、いわゆる叙述トリックの一種ではあるが、父親を騙すことで今までネガティブな態度を取ってきた彼に舞台劇の魅力を認めさせるという「物語の進行に役立つ」トリックだと言える。対して本作はトリックを導入するために大きくストーリーの容貌を歪ませているので、発想はすごく面白いが、少し割に合わない気がしてならない。もちろん、本作のトリックを高く評価する人もたくさんいる、好みは人それぞれ。

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全く関係ないけどガルニエまじでおもしれええ

まとめ

 個人的にもう少し工夫してほしかったと感じる一面もあるが、ロープラでありながら世界観の完成度が高く、非常に魅力的な作品である。次回作に期待大。

 

おまけ

 アリストテレスは『詩学』において劇を6つの構成要素に分ける。それぞれ「筋」、「(登場人物の)性格」、「語法」、「思想」、「視覚的装飾」、「歌曲」である。これらは正にゲームの「ストーリー」、「キャラクター」、「テキスト」、「テーマ」、「絵」、「音楽」にそれぞれ対応すると私は思う。つまるところ何を言いたいかというと、ゲームと演劇には通じるものがあるんだと。言いたかっただけ。